彼女の本は、10代の頃に何冊か読んでいて、元来そうだが、だんだんと内容のスピリチュアル色がかなり強くなってきて、この人はどこに行くのだろうか…と疑問に思いながら、なんとなく読まなくなってしまっていた。
多感な時期に読んだこともあって、今でも文章の場面がトラウマのように印象に残っていたりする。『コンセント』の兄の死の場面は特に…
その数年後に『コンセント』の話をしていたら、
私の叔父さんもまったく同じ状況だったんだよ…
と話してくれた友人がいて、その話と小説が混ざり同化してしまい、全体の内容は忘れてしまったが、その部分の状況だけが余計にすべてが生々しく細かく頭の中にこびり付いてしまっている。
…窓辺に吊るされた白いワイシャツがあったのは、ランディさんのお兄さんだったか、友人のおじさんだったか。
私の叔父さんもまったく同じ状況だったんだよ…
と話してくれた友人がいて、その話と小説が混ざり同化してしまい、全体の内容は忘れてしまったが、その部分の状況だけが余計にすべてが生々しく細かく頭の中にこびり付いてしまっている。
…窓辺に吊るされた白いワイシャツがあったのは、ランディさんのお兄さんだったか、友人のおじさんだったか。
アーリーが、イベント関連で最近のランディさんの本の内容の話してくれて、私の好きそうなところをついてきていたので、久しぶりに読んでみることにした。
死刑囚の話、としか聞いていなかったのだが、読んだら”オウム真理教のある死刑囚”の外部交流者としての私小説だった。
死刑囚の話、としか聞いていなかったのだが、読んだら”オウム真理教のある死刑囚”の外部交流者としての私小説だった。
久しぶりに彼女の文章を読んで、あぁそうだった、この人の文章は、好奇心や興味の赴くままにわき目もふらずに突き進み、どんどん内側へ深いところへ加速して、それをあけすけなく感覚のまま言葉にして書くんだった。
切れそうなほどにピンっと張りつめられた細い糸がキリキリ鳴り出して切れる寸前で、毎回、フッと力を抜くんだった。だから最後には、糸が頼りなく風になびいている姿だけを余韻に残す。そんな印象だった。
自分を見ているようだから、話に入り込みやすくもあり、読みながらイライラもしてしまう。
切れそうなほどにピンっと張りつめられた細い糸がキリキリ鳴り出して切れる寸前で、毎回、フッと力を抜くんだった。だから最後には、糸が頼りなく風になびいている姿だけを余韻に残す。そんな印象だった。
自分を見ているようだから、話に入り込みやすくもあり、読みながらイライラもしてしまう。
オウム真理教について、昔から無性に惹きつけられて仕方がない。特にサリン事件以降、興味が一層増していった。
80年代前半に頭の良い大学の学生であったら(頭が悪いから絶対にあり得ないが…)、入信しただろうかと時々仮定して考えてしまう。
ブログにも、オウム真理教については、何かあると抑えきれず書いてしまっていた気もする。(とまらなくなるので、なるべく控えているのだが。)
知ろうとすると、飲めば飲むほど余計に喉が渇いてしまい、潤したいのにどんどん枯渇して最後には唾液も失い喉の内側が引っ付いてしまう感覚になる。
80年代前半に頭の良い大学の学生であったら(頭が悪いから絶対にあり得ないが…)、入信しただろうかと時々仮定して考えてしまう。
ブログにも、オウム真理教については、何かあると抑えきれず書いてしまっていた気もする。(とまらなくなるので、なるべく控えているのだが。)
知ろうとすると、飲めば飲むほど余計に喉が渇いてしまい、潤したいのにどんどん枯渇して最後には唾液も失い喉の内側が引っ付いてしまう感覚になる。
信仰による宗教テロは、世界中で日々起きていて、近年は特にムスリム系が多いが、世界中で蔓延している宗教・宗派テロと、オウム真理教テロは、全く別物な気がしていた。どちらかといえば、ナチスドイツとかに近いのではないかな。
ナチスやアウシュヴィッツについて最近ブログに書いていたので、調べ考える機会があったから、余計に似ている気がしてしまう。
ナチスもオウムも、集団によるあまりに残虐で人道に外れた行為であるが、多くの人を巻き込み関係していたから当事者からの聴取により解明できそうなはずなのに、知りたくて覗き込もうとすると、余計わからなくなり、その不可解さや矛盾の袋小路で途方にくれ、足元の小石にさえ天の啓示と受け取りオカルト的な意味づけさえしてしまう。
だが結局、何の意味など無いのだ。
ナチスやアウシュヴィッツについて最近ブログに書いていたので、調べ考える機会があったから、余計に似ている気がしてしまう。
ナチスもオウムも、集団によるあまりに残虐で人道に外れた行為であるが、多くの人を巻き込み関係していたから当事者からの聴取により解明できそうなはずなのに、知りたくて覗き込もうとすると、余計わからなくなり、その不可解さや矛盾の袋小路で途方にくれ、足元の小石にさえ天の啓示と受け取りオカルト的な意味づけさえしてしまう。
だが結局、何の意味など無いのだ。
日本の死刑制度については思うことがあるが、それよりも、執行によって全てがうやむやになってしまい、私の中の色んなモヤモヤがより一層増していった。やるせないな・・・
うまく言葉で説明できないが、人が日常とは違うすごく特別な事をするとき、それが良いことでも悪いことでも、起点はそんなに変わらない気がしていて、誰もが持っている身体の輪郭の外周に漂うモヤみたいな部分が、その特別なところで、身体の輪郭はいとも簡単にぶれやすいのだと思う。
多くの人間が社会生活の中で、その輪郭を必死に保っていて、少しぶれてしまうことはあるけど、境界線が曖昧になる前に元に戻す努力をする。でも気を張っていないと、どんどん輪郭がぼやけてきて、モヤと同化してしまうのだと思う。
だから、人が道を外れずに一生を終えることは、すごく神経を使い大変なことなのではないかと思った。
多くの人間が社会生活の中で、その輪郭を必死に保っていて、少しぶれてしまうことはあるけど、境界線が曖昧になる前に元に戻す努力をする。でも気を張っていないと、どんどん輪郭がぼやけてきて、モヤと同化してしまうのだと思う。
だから、人が道を外れずに一生を終えることは、すごく神経を使い大変なことなのではないかと思った。
やはりうまく伝えられないな…
本書にでてくる「反省」に対しての見解や、元信者の木田さんがオウム以外の何かを模索した経験談と、松本サリンの河野さんの考え方や生き方が、面白く深く考えさせられた。
被写体はオウムでなくてもよかったのかもしれないとも思うが、オウムであったからこそ強い感情と好奇心と、自分と他者のコントラストがはっきりしたのだろうな。
話は変わるが、ランディさんの本で知り、今でも本当によく使う言葉が【ふんがも】である。知る前は、【ふんがも】の状況に陥った時に、それを表す単語が無かったが、知った後は、「あ、また【ふんがも】だ」と思うようになり、喉に刺さった小骨がとれたような気持になった。『オカルト』を読んでくれている人なら【ふんがも】が通じて、尚のこと嬉しいのですが。笑
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