2020/02/24

うん、わかるよ…



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すごくセンシティブになっている方からすると、発狂してしまいそうは話だが、
先週の夕方、電車に乗っていたら、
部活帰りの女学生(中2か、高1くらいかな)が3人乗ってきた。
高い位置でポニーテールをした、あどけなさを残すが、大きなカバンを肩に下げた、運動部のキリッとした雰囲気がある制服姿の可愛い女の子たちだった。
3人は話しながらセブンティーンアイス(自販機で売っているコーンアイス)を片手に電車に乗ってきて、扉のところで円になる様に立ちながら、大きなカバンをそれぞれの足元に重そうに置いた。
アイスは、コーンを残してアイスの部分を綺麗に食べていて、きっと部活の疲れと小腹を満たすために買い食いしていたのだろう。
パッケージの紙は取り除き、コーンを素手で持ちながら、3人は話しに夢中だった。
しばらくすると、パタンと定期が落ちる様な音がして、3人の動きが止まった。
そして、私の正面に立っていた女の子が、屈んだ後にソロソロと立ち上がった。
その顔は、変な表情で固まっていた。
拾った手元を見ると、ちょうどコーンの部分を一口かじったばかりのアイスを持っていた。
きっとコーンの部分を楽しみにして大事に食べていたことだろう…
他の2人も、
「あ。。。」
と言ったかんじで固まっていたが、
そのうちの1人が、何を思ったか
「ウェットティッシュあるよ!」
と、言った。
「え?…あ…いや、ウェットティッシュで拭くってありなの?」
と、他の2人は混乱していた。
不謹慎ながら、
このご時世で、電車内での飲食と、なおかつやりとりがあまりに面白すぎて、続きがどうなるか気になっていたのだが、最寄り駅に着いてしまい、後ろ髪引かれながら降りてしまったのだが…
ホームから振り返ると、彼女は、まだコーンを持ったまま困惑した顔で固まっていた…
色んな要素が絡んでくる複雑な状況のため、彼女たちは決断がくだせなかったのだろう…
①屋外(しかも電車の床)で3秒ルールは、適用されるのか。
②コーンアイスのアイス部分は食べきり、コーン(乾燥している)部分が着地している場合、セーフなのか。
③上記の二つがクリアした場合、ウェットティッシュで着地面を拭けばセーフなのか。
彼女たちは完全に、世間を騒がすコロナウイルスなんか全く頭にないんだろうな。
2ドア先の座席に座る女性は、マスクにビニール手袋までして乗っているけど、同じ空間にいるとは、思えない光景だった。
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2020/02/19

おひなさま

 1年以上前から受けていた注文のおひな様をやっと納品しました。
これは、平成天皇&皇后バージョン(着物)になります



箱描き
(※木目に対して縦ではなく横書きしています。あしからず)


2020/02/03

何者にもなれない人

「え…っと…それってどういうことですか…?」

「つまり、〇〇とかだよ、アイツは、この先、何者にもなれないだろう?」

自分でわかっていても、他人からは言われたくない言葉ワースト10には入る気がする。

そもそも○○氏とほとんど面識がない私にそう話す神経に、何とも胸くそが悪くなった。
「あなた、何様ですか?」と喉元まで出かかって、
この人にキレてもエネルギーの無駄遣いだと思い、肯定も否定もせず助手席で笑顔だけ張り付けていた。

そんなことが以前あったのを忘れていたのだが、
姉の本棚にあった朝井リョウの『何者』を借りて、読んでいたら思い出した。
で、続編は『何様』…



朝井リョウは、すごく好きな作家というわけでもないが、表現が繊細で、切り口が鋭利で、文章もうまいので、毎回最後まで飽きずに読める。

『何者』は、群像劇であるが、人の線が重なりそうで重ならず、それぞれが他人に皮を剥がされていく感じだったのだが、
『何様』は短編集で、各話で線が重なり合う人に必ず会って、気づかされるといった感じだった。
2冊とも、人間の陰性(習性)や教訓めいた言葉が散らばってもいるから、身につまされる人も多いのだろうな。

朝井リョウは、たしか30歳くらいだから、割と下の世代になるはずだ。
自惚れが生み出す幻想の"何者"信仰に囚われているのは、ロスジェネ世代〜バブル世代だと勝手に思っていた。

戦後民主主義の中、日本版資本主義が社会に定着して、安定した終身雇用と高度成長に続く好景気の中で幼少期を過ごし、全体主義的な義務教育を経て、冷戦も終結し一国平和主義と、曲解した欧米式の自主性や自由思想を理想として語るマスメディアに洗脳されながら育ち、社会に出る瞬間にバブルの洗礼を受けたバブル世代と、社会に出る瞬間に不況のため不自由さで辛酸をなめた氷河期世代、遅かれ早かれ洗脳された理想郷とは程遠い現実に直面して頭の中で現実逃避したのが、1982年〜1965年生まれあたりの中高年なんじゃないかと思っていた。

つまり“何者”かであることにこだわり、羨望と嫉妬に苛まれてしまうのも(ロスジェネ世代)、あるいは自分が何者かであると頑なに信じてしまうのも(バブル世代)、育った時代の社会システムが生み出した幻想なのではないかと思っていた。
なので相対的に見たら、我々中高年に比べて下の世代は、この共通感覚を持つ人が少ないのではないのかと感じていた。

しかし、いったいこの"何者"とはなんなのだろうか…

封建社会の中、産まれた瞬間に、なる者が決まっていた時代。
各層に貧富の差はあれど、武士も、貴族も、農民も、蛙の子は蛙にしかなれなかった。
身分違いなんて言葉が使われ、大半の人が不自由さゆえの繭の中で、自分が何者かと頭を抱えることもなく、実直に被差別的アイデンティティの確立をしていた。

それが現代になり、平等という建前社会のもと、自由という虚構の選択肢が現れてしまい、トンビがタカでもヨタカでも産むのだと、自分はもしや非凡な何者なのではないかと幻想アイデンティティへ迷走する。

揶揄すると、ローファンタジー(厨二病世界)みたいな感じなのかと思う。

"何者"を"夢を叶えた人"に変えてみると、少しだけ現実的になるのかもしれない。
だが、実際には夢がない人の桃源郷が"何者"である場合が多いのではないかと思う。

とても幸せなことではあるのだが、五体満足で衣食住に困ることなく、平和と安定があるからこそ持てる夢であるから、半ば強要される”夢を持たなければならない”という無言の圧力に、不安定になる青少年も多かったのではないだろうか。

大人になったら何になりたいかとか、夢は何とか、私が小さい頃はやたらと文集や質問で書かされたが、私はなかった。
で、困り果てて、姉の真似をした。
今でも覚えている、幼稚園で書かされるあの拷問に等しい質問に、焦燥しながら空欄をみつめていた。

子どもの全員が夢を持たなければならないとは、平等と平和が見せる凶悪な妄想である。
将来の夢など持たない10代がほとんどじゃなかったのかな。

物心ついた時から、
本でも、漫画でも、映画でも、ゲームでも、全ては”何者”かである人の物語で、“何者”でもない人(=“普通”の人)は、そもそも脇役でも悪役でもなく、名さえ与えられず、無機物の風景でしかない。

その洗脳をふんだんに浴びてきた我々にとって、”何者”でもないこと(=“普通”)は無価値や罪悪に相当するのかのようである。

名もなき“普通”の人から抜け出したいと願うあまり、飲み会のナンパの常套句として、”きみ、他の子となんか違うね”、”なんか変わっているね”とポジティブに使うと、相手が特別になれた気がして舞い上がるという話も聞く。
よく考えずとも、本当に”変わった人”には、”変わっているね”なんて面と向かって言わないし、空気も読まずに言ったりしたら、キレられる。

そもそも“何者”の本来の使い方は、
「お主、何者?」
と闇夜の辻で聞かれた時に、
「拙者は、〇〇藩のナニガシである」
というのが、本来の答えなのである。

もうすでに何者かである我々の、肥大した承認欲求と上昇志向による幻影が、青い鳥のように自分探しを続けさせている気がするし、SNSの承認欲求アピールを中高年が一番盛んにしてしまう理由なのかもしれない…(身につまされる…)

オーディション番組や雑誌、アポなしのバラエティ番組など、”普通の人”が”何者”かになる過程を見ていくドキュメンタリー的テレビが絶大な人気を博し、みんなが同じ番組を見ていたのも、
何者かであることを追い求め、バックパッカーが流行り、若者のカルト教団への入信が取り沙汰されたり、〇〇系や〇〇族など限られた地域やファッションで自分たちをカテゴライズしたり、啓発本が何冊もベストセラーになったりしたのも、今の中高年が若者だった10代〜20代の頃の話である。

“何者”を追い求め、現実の中で夢破れたと錯覚している人たちと、未だに選ばれし”何者”かであると自分に酔えている夢うつつな人たちとで見たら、
他人から見た時の痛さにだいぶ開きはあれど、後者の人生ほど幸福なものはないだろう。
夢や理想や幻想は、糧にもなるが、心を病ませ、人をも殺す可能性がある。
そもそも健康な大人は、自分が”何者”かなどにこだわったり、SNS相手に事細かに日常や心境を報告しないのかもしれない。

新しい今の若い世代の共通認識の中に、何者信仰は、存在するのだろうか。
情報の量も速度もあまりに増大し、色々なものの価値の比重が大きく変わってしまった現代では、もう必要ない信仰なのかもしれない。もしくは、新たな価値基準の中でまた、新興宗派”ナニモノ”があるのだろうか。

そう考えると朝井リョウの『何者』に対する感覚も、もしかしたら、私の考えるものと少し違うのかもしれないと思う反面、
本文に、主人公が表現者名(作家名・twitterアカウント等)を平仮名に変えているというくだりがあったのだが、

“劇団の脚本を書いたり役者として舞台に上がるときは、名前をひらがなで表記する。そんなダサいルールを決めたのは、初舞台を踏んだ大学一年生の六月かのころだった。
漢字をひらがなにする、たったそれだけのことで何者かになれた日々は、もう遥か昔のことのようだ。”(「何者」より)

その安直な感覚は、自分の作家名が平仮名にしている事もあり、すごく良くわかる。

ダサさの言い訳をしておくと、
私の場合、名前の漢字や耳触りが昔からあまりしっくりこなくて、興味本位でネットで姓名判断を見たら字画が悪すぎて、ついでに平仮名でもみたらそっちの方がまだ良かったからというのが一番の理由だった。
ちょうど大学の専攻の先生が2人とも作家名の漢字を変えていたことと、
洋画の大学院生にカタカナを作家名にしている人がいて、これは学生でも有りなんだなぁと思い、
大学院から作家名を平仮名に変えてみることにしたという、本当に単純な理由なのだけど…。
変えてみて、こんなお手軽なことですら意識の差別化は出来て、気分が変わるものなのだなと思った。
変えたことでフルネームで呼ばれることが多くなり、耳触りだった名前の音すら耳慣れした。
そして今や、平仮名に慣れすぎて、漢字で名前を書く方が違和感を覚えてしまい、たまに自分の漢字を書き損じてしまったりさえする…。その上、名前よりも無機質で、ある種の個々を識別するための請求記号みたいな感覚にさえなる。
漢字には色んな意味を連想しやすいが、カタカナや平仮名には、従来の単語としての意味がない限りは、純粋に音としての感覚でしか捉えきれないのではないかと思う。
次、新しい何かになる時は、カタカナにするかな。

ただ氷河期世代の私だが、美術大学出身な上、一般的な就職活動をしていないので、朝井リョウの小説の就活生の感覚も、氷河期世代の苦悩も実体験としては全く持っていない。なのでこの”何者”信仰みたいな共感性は、単なる世代間の刷り込みと想像でしかない。つまり、私の独断と偏見である。

明確な指針もなく、意識下に存在する”何者”に対する定義は人によってひどく曖昧なため、それぞれなんだろうなとも思う。わかりやすいところだと、持ち物やステータスや肩書きであったり、年収やライフステージやパートナーであったりもするのだろう。

そんな私の中での”何者”の意味合いは、運も含めた才能やセンスがある、という感覚に近い。
つまり、今で言うと”持っている”人という言葉のニュアンスに近い気がしている。

と、そんなことをひと通り考えていたら、
Twitterの裏でも表でもなく、ただ国際ニュースを補完するためだけに使っているアカウントでフォローしている誰かがリツイートした中に、”駄サイクル”というのがあった。
石黒正数の漫画『ネムルバカ』の中にある話なのだが、
ついこの間見かけて、かなりタイムリーだったので、読んでみた。

 私がくどくど書いていたことが非常に分かりやすく一冊でまとめて描いてある。
なんとも身につまされるが、非常に良くできた教訓的な漫画である。10年前には出ているし、話題になったから、朝井リョウも『何者』を書く前に読んだんじゃないかとさえ思う…
ぐうの音も出ない…。




”何者”信仰の人は、大学生に戻ってこれを一回読んでから出直してきた方が良いのかもしれない。

しかし、結局のところ、全ては社会が生み出したくだらぬ幻想である(社会病理)。全ての人がすでに”何者”であり、それ以上でも以下でもない。

”何者”信仰に惑わされた魂が、健やかなる道へ戻れるように、一番真理をついていた”何者”代表のような人の言葉を最後に引用しておく。


“何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。”羽生善治