その夜の電車は、ラッシュではなかったが、空いているつり革がなかなか見つからないくらいには混んでいた。
下りの快速電車に乗っていたので、都内を出た後は、停車駅の間合いは長かった。
つり革がないので、仕方なく扉の近くの手すりのそばに立つことにして、鞄の中から文庫本を出した。
しばらく乗っていると、
すぐ近くに少しずんぐりとした丸顔で人の良さそうな顔の40代くらい背広姿のサラリーマンと彼より少し若い印象の同僚らしい男が扉の方に顔を向けながら話しているのに気がついた。
40代くらいの男が、
―この間、親父が死んで、田舎に帰っていたんですよ。
と、何気無いかんじに切り出した。
若い方は、少し気まずそうに、
―それは…
とお悔やみの言葉を言おうとして、40男がそれを遮るように、続けた。
―いやね、親父と言っても、ウチは子供の頃に離婚していたから、もうだいぶ会ってなかったんですけどね。だから、顔もあまり覚えてなくて、親父が死んだからと実感もわかなくてね。葬式を済ませた後に、すずめの涙ほどの金額だが遺産という形でいくらか受け取ったりしてね。
若い同僚は、返す言葉に迷ったらしく、ただ曖昧に相づちをうった。
話はそこでひと段落するかと思ったのだが、40男は、聞き手を気にするでもなく、一人語りの様にとつとつと続きを話し始めた。
――
彼の田舎は、山に囲まれた小さな村落で、交通も不便なので、日帰りも出来ずに、仕方なく父親の生家に泊まらせてもらうことになった。
田舎の家だけあり、家はだだっ広い平屋で、客用布団もたくさんあったので、泊まることには問題はなかったが、なにせ馴染みのない家や親戚だったので、葬儀の間も少し居づらい気がしていた。
父親は、彼の母親と離婚した後は、仕事を辞めて実家に戻り、稼業の農家を継ぎ、そのまま生涯独り身だったらしい、彼の祖父母は十数年前にすでに他界していたが、その家には父親以外に父親の妹にあたる叔母さんも一緒に住んでいたという。
自分は父にとっては、血のつながる唯一の子供であり、葬式くらいには顔を出す義理もあるので、遺産までオマケが付くとは思わなかったが、これがその土地に行くのも最初で最後だと思い、はるばる足を伸ばしたのであった。
数十年ぶりにみた横たわる父の顔は、自分に似ている気がして、余計に居づらさを感じ、小さく手を合わせてそそくさと席に戻ったが、父の妹にあたる叔母さんは、彼の参列に、何度も頭を下げて感謝をしていた。
その姿もまた、彼を居づらくさせた。
その叔母さんは、とても小柄な人だった。
背丈は、150㎝そこそこだが、痩せているせいか、元々の骨格が細いのか、とにかく小さな印象を受けた。
喪服の黒も、小ささを余計に強調させた。
そして、彼女の小さな耳には小さな補聴器がついていた。
火葬を済ませた遺骨の入った骨壷を恭しく抱えた小さな叔母がひどく貧弱にみえて、物悲しくなった。
電車が駅に停まり、ドアの前にいた2人の男は、少し横に移動して、数人の往来をやり過ごした。
また、ドアが閉まったところで、2人は定位置であるかのように、同じ場所に戻った。
40男は、ふいに声を潜めたようにして軽く口を片手で覆いながら言った。
―そこの土地は少し変わった風習があるんですよ。いや、私もその時に初めて知ったんですけどね。
と、ここで一層声を潜めて、
―" "ってご存知ですか?
と、同僚の男に聞いた。
聞きなれない音と声の小ささで、肝心なその言葉をよく聞き取ることができなかったが、どうやら、何かのモノの名称のような雰囲気だった。
同僚の男は、少し怪訝な顔をしてから首をふり、なんですか、それ、と答えた。
40男は、小さく何度かうなづくと、また普通のトーンで話し始めた。
――
火葬後、参列者で少しだけ飲み食いしたが、叔母は、その間もずっと小さな体全体でしがみつくように骨壷を抱えていた。
小さな村には、火葬場はなかったため山を超えて少し離れた小さな街に来ていた。
近所で出し合った車に乗り合いながら帰途についたが、村の入り口に着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
葬儀に出払った集落は、ひどく暗く、廃村したかのように見え、道の悪さにガタガタと揺られるたびに、車のライトが上下して、畑の間に、時折、真っ暗な家が大きな岩のようにヌッと現れた。
カーラジオのナイター中継を小さく聴きながら、言葉少なく家に着く間、叔母の腕の中で、骨壷だけが暗闇に白くぼんやりと浮かび上がっていた。
車を家の前で降り、お礼を告げ、外灯の消え静まり返った家へ、叔母と二人で帰ってきた。
家を出るときは、外がまだ明るく、参列した人や近所の手伝いの人もいたし、父もまだ人の形をしていた。
玄関の電気をつけても、廊下の先から静けさが闇とともに押し寄せて来るみたいで、家中の電気をつけたかったが、叔母は、まるでいつもの癖のように最低限の部屋にしか電気を点けずに、仏間に蛍光灯が瞬いた。
叔母は骨壺を祭壇におくではなく、座卓の上に置き、うやうやしく骨壷を開け始めた。
ギョッとして、声をかけると、叔母は少しきょとんとしてから、合点したのか、訛りの強い言葉で説明し始めた。
どうやら、この土地特有の風習で骨(主に喉仏)から最後の言葉を"聴く"のだという。
しかも、それを聴けるのは、一番近い家族だけだという。
にわかに信じられないが、
叔母は、何か特別な所作があるのか、何度かブツブツと口の中でお経のようなものを唱えはじめた。
そして、小さな耳から、補聴器をとり、
恭しく骨を取り出し、白いハンカチの上にのせて、まるで浜辺で貝殻から海の音を聞くように、小さな耳にそれを押し当てた。
叔母は、目をつぶり、静かになった。
一瞬の静寂の後、急に外の虫の音が、大きくなった気がした。
叔母から目が離せずに、金縛りのように動けずにいた。
耳だけが、やたらと敏感になっていた。
叔母は、寝ているように、いや、息すらしていないように、ピクリとも動かなかった。
何分たったか、(数十分たっていたかもしれないが、)耳鳴りか虫の音かわからないところに、突如、仏間の柱時計がボーンと大きな音を立てた。
驚いて体がビクリと動いてしまう。
すると、叔母もそれで、我に返ったように、フーっと息を吐き出した。
その息を合図に部屋の空気がまた、動き始めたように感じた。
また電車が駅に着いた。今度は、逆のドアが開いた。
話が途切れ、乗り降りする人を見ている40男に、もう1人が、
―それで、何か聞こえたのですか?
っと続きを促すように尋ねた。
乗車口を見ていたはずの40男は、私の方へ目を移す。
目が合ってしまい、私は焦ってすぐに視線を本に戻す。
視線がなくなった気がして、すぐにまた、40男は話はじめた。
―…………がとう…って
―え?
―ありがとうって言っていたそうです。でも、それにしては長かった。
たぶん、それ以外も何かあったのでしょうね…でも、きっと僕が知るようなことではなかったんでしょう。
連絡はおろか、親父の顔も覚えてなかったんですから…たぶん、そのありがとうっていうのも、その晩、叔母を1人にしないでくれてありがとうって意味だとも思いました。
…ひねくれているように聞こえるでしょ。
でも、仕方ないんですよね、親に対してなんてそんなもんですよね…死に顔見るまで、親なんて思ったこともなかったのに。
叔母は、大切に骨を外して、また骨壷に戻してから、静かに泣いていました。
連れの男は、好奇心で急かしたことにバツの悪そうな顔をして黙っていた。
少し沈黙した後、40男がポツリと言った。
―でも、やっぱり悔しかったんですよ。一応、血を分けたたった一人の息子でしょ。死んだ後だって、なんか聞きたかった。
だから、夜中に起きて、自分も聞いてみようと思ったんですよ。
お包みを開けて、骨壷の蓋をそっとあけると、乾ききった珊瑚のようにカラカラの白い骨が詰まっていました。
その一番上に喉仏はありました。
知っていますか?喉仏って本当に仏さまが手を合わせてるみたいな形をしているんですよ。
脆くすぐ砕けてしまいそうに見えるその骨を摘んで、耳に押し当ててみたんです。
…でも、何にも聞こえなかった。
骨壷の口にも、耳を当てましたが、カサリと崩れる音がしただけだった。
なんだか無性に疎外感を覚えてしまいました。
…帰路の電車の中でずっと考えたんですけどね、あれは、叔母の単なる冗談かもしれないと。
そう、ふと思ったら、なんだか笑えてきましたよ。
だってそのあと、いろいろ調べたけどそんな風習は聞いたこともないですしね。
それに、叔母は補聴器を外した耳で聞いていたのですから。
と、悲しそうに笑った。
下りの快速電車に乗っていたので、都内を出た後は、停車駅の間合いは長かった。
つり革がないので、仕方なく扉の近くの手すりのそばに立つことにして、鞄の中から文庫本を出した。
しばらく乗っていると、
すぐ近くに少しずんぐりとした丸顔で人の良さそうな顔の40代くらい背広姿のサラリーマンと彼より少し若い印象の同僚らしい男が扉の方に顔を向けながら話しているのに気がついた。
40代くらいの男が、
―この間、親父が死んで、田舎に帰っていたんですよ。
と、何気無いかんじに切り出した。
若い方は、少し気まずそうに、
―それは…
とお悔やみの言葉を言おうとして、40男がそれを遮るように、続けた。
―いやね、親父と言っても、ウチは子供の頃に離婚していたから、もうだいぶ会ってなかったんですけどね。だから、顔もあまり覚えてなくて、親父が死んだからと実感もわかなくてね。葬式を済ませた後に、すずめの涙ほどの金額だが遺産という形でいくらか受け取ったりしてね。
若い同僚は、返す言葉に迷ったらしく、ただ曖昧に相づちをうった。
話はそこでひと段落するかと思ったのだが、40男は、聞き手を気にするでもなく、一人語りの様にとつとつと続きを話し始めた。
――
彼の田舎は、山に囲まれた小さな村落で、交通も不便なので、日帰りも出来ずに、仕方なく父親の生家に泊まらせてもらうことになった。
田舎の家だけあり、家はだだっ広い平屋で、客用布団もたくさんあったので、泊まることには問題はなかったが、なにせ馴染みのない家や親戚だったので、葬儀の間も少し居づらい気がしていた。
父親は、彼の母親と離婚した後は、仕事を辞めて実家に戻り、稼業の農家を継ぎ、そのまま生涯独り身だったらしい、彼の祖父母は十数年前にすでに他界していたが、その家には父親以外に父親の妹にあたる叔母さんも一緒に住んでいたという。
自分は父にとっては、血のつながる唯一の子供であり、葬式くらいには顔を出す義理もあるので、遺産までオマケが付くとは思わなかったが、これがその土地に行くのも最初で最後だと思い、はるばる足を伸ばしたのであった。
数十年ぶりにみた横たわる父の顔は、自分に似ている気がして、余計に居づらさを感じ、小さく手を合わせてそそくさと席に戻ったが、父の妹にあたる叔母さんは、彼の参列に、何度も頭を下げて感謝をしていた。
その姿もまた、彼を居づらくさせた。
その叔母さんは、とても小柄な人だった。
背丈は、150㎝そこそこだが、痩せているせいか、元々の骨格が細いのか、とにかく小さな印象を受けた。
喪服の黒も、小ささを余計に強調させた。
そして、彼女の小さな耳には小さな補聴器がついていた。
火葬を済ませた遺骨の入った骨壷を恭しく抱えた小さな叔母がひどく貧弱にみえて、物悲しくなった。
電車が駅に停まり、ドアの前にいた2人の男は、少し横に移動して、数人の往来をやり過ごした。
また、ドアが閉まったところで、2人は定位置であるかのように、同じ場所に戻った。
40男は、ふいに声を潜めたようにして軽く口を片手で覆いながら言った。
―そこの土地は少し変わった風習があるんですよ。いや、私もその時に初めて知ったんですけどね。
と、ここで一層声を潜めて、
―" "ってご存知ですか?
と、同僚の男に聞いた。
聞きなれない音と声の小ささで、肝心なその言葉をよく聞き取ることができなかったが、どうやら、何かのモノの名称のような雰囲気だった。
同僚の男は、少し怪訝な顔をしてから首をふり、なんですか、それ、と答えた。
40男は、小さく何度かうなづくと、また普通のトーンで話し始めた。
――
火葬後、参列者で少しだけ飲み食いしたが、叔母は、その間もずっと小さな体全体でしがみつくように骨壷を抱えていた。
小さな村には、火葬場はなかったため山を超えて少し離れた小さな街に来ていた。
近所で出し合った車に乗り合いながら帰途についたが、村の入り口に着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
葬儀に出払った集落は、ひどく暗く、廃村したかのように見え、道の悪さにガタガタと揺られるたびに、車のライトが上下して、畑の間に、時折、真っ暗な家が大きな岩のようにヌッと現れた。
カーラジオのナイター中継を小さく聴きながら、言葉少なく家に着く間、叔母の腕の中で、骨壷だけが暗闇に白くぼんやりと浮かび上がっていた。
車を家の前で降り、お礼を告げ、外灯の消え静まり返った家へ、叔母と二人で帰ってきた。
家を出るときは、外がまだ明るく、参列した人や近所の手伝いの人もいたし、父もまだ人の形をしていた。
玄関の電気をつけても、廊下の先から静けさが闇とともに押し寄せて来るみたいで、家中の電気をつけたかったが、叔母は、まるでいつもの癖のように最低限の部屋にしか電気を点けずに、仏間に蛍光灯が瞬いた。
叔母は骨壺を祭壇におくではなく、座卓の上に置き、うやうやしく骨壷を開け始めた。
ギョッとして、声をかけると、叔母は少しきょとんとしてから、合点したのか、訛りの強い言葉で説明し始めた。
どうやら、この土地特有の風習で骨(主に喉仏)から最後の言葉を"聴く"のだという。
しかも、それを聴けるのは、一番近い家族だけだという。
にわかに信じられないが、
叔母は、何か特別な所作があるのか、何度かブツブツと口の中でお経のようなものを唱えはじめた。
そして、小さな耳から、補聴器をとり、
恭しく骨を取り出し、白いハンカチの上にのせて、まるで浜辺で貝殻から海の音を聞くように、小さな耳にそれを押し当てた。
叔母は、目をつぶり、静かになった。
一瞬の静寂の後、急に外の虫の音が、大きくなった気がした。
叔母から目が離せずに、金縛りのように動けずにいた。
耳だけが、やたらと敏感になっていた。
叔母は、寝ているように、いや、息すらしていないように、ピクリとも動かなかった。
何分たったか、(数十分たっていたかもしれないが、)耳鳴りか虫の音かわからないところに、突如、仏間の柱時計がボーンと大きな音を立てた。
驚いて体がビクリと動いてしまう。
すると、叔母もそれで、我に返ったように、フーっと息を吐き出した。
その息を合図に部屋の空気がまた、動き始めたように感じた。
また電車が駅に着いた。今度は、逆のドアが開いた。
話が途切れ、乗り降りする人を見ている40男に、もう1人が、
―それで、何か聞こえたのですか?
っと続きを促すように尋ねた。
乗車口を見ていたはずの40男は、私の方へ目を移す。
目が合ってしまい、私は焦ってすぐに視線を本に戻す。
視線がなくなった気がして、すぐにまた、40男は話はじめた。
―…………がとう…って
―え?
―ありがとうって言っていたそうです。でも、それにしては長かった。
たぶん、それ以外も何かあったのでしょうね…でも、きっと僕が知るようなことではなかったんでしょう。
連絡はおろか、親父の顔も覚えてなかったんですから…たぶん、そのありがとうっていうのも、その晩、叔母を1人にしないでくれてありがとうって意味だとも思いました。
…ひねくれているように聞こえるでしょ。
でも、仕方ないんですよね、親に対してなんてそんなもんですよね…死に顔見るまで、親なんて思ったこともなかったのに。
叔母は、大切に骨を外して、また骨壷に戻してから、静かに泣いていました。
連れの男は、好奇心で急かしたことにバツの悪そうな顔をして黙っていた。
少し沈黙した後、40男がポツリと言った。
―でも、やっぱり悔しかったんですよ。一応、血を分けたたった一人の息子でしょ。死んだ後だって、なんか聞きたかった。
だから、夜中に起きて、自分も聞いてみようと思ったんですよ。
お包みを開けて、骨壷の蓋をそっとあけると、乾ききった珊瑚のようにカラカラの白い骨が詰まっていました。
その一番上に喉仏はありました。
知っていますか?喉仏って本当に仏さまが手を合わせてるみたいな形をしているんですよ。
脆くすぐ砕けてしまいそうに見えるその骨を摘んで、耳に押し当ててみたんです。
…でも、何にも聞こえなかった。
骨壷の口にも、耳を当てましたが、カサリと崩れる音がしただけだった。
なんだか無性に疎外感を覚えてしまいました。
…帰路の電車の中でずっと考えたんですけどね、あれは、叔母の単なる冗談かもしれないと。
そう、ふと思ったら、なんだか笑えてきましたよ。
だってそのあと、いろいろ調べたけどそんな風習は聞いたこともないですしね。
それに、叔母は補聴器を外した耳で聞いていたのですから。
と、悲しそうに笑った。
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