一部短くもないものも含まれる…
●『思い出を切りぬくとき』 萩尾望都
(2015年10月 エッセイ)
名前だけはよく存じ上げていた萩尾望都さん。一度読みたいとずっと思っていたが、親の教育上(?)漫画と無縁の幼少期を過ごしたため、漫画は友達に借りるもので、買うという感覚が全くなく、読む機会がなかった。
たまたま目に入ったこのエッセイに手を伸ばしたのは本当に偶然で、これを読んだら、無性に彼女の漫画が読みたくなってしまった。作品を知らないから、彼女を崇拝する人たちとは全く別次元の無知な状態から、共感できる部分が其処此処に転がっていて、かなり親しみを持って読んでいた。そういったてらいのない文章をかく人なのだと思う。
常々自分の頭の固さとクソ真面目さに辟易するだけれども、この間ギャラリーのオーナーとの話を思い出した。歳を召された方で現役で創作をされている人の頭の軟らかさときたら、少年の様だ評していた。それを聞いて、自らの短命を悟りながら、自分の中に居座る鈍色の硬い物体を想像して、20代までの瑞瑞しく透明で尖っていた青臭い感覚を恨めしく思った。生きやすさと感受性というものは反比例するのだと思う。
この本は、漫画家生活40周年を記念して20代の頃のエッセイをまとめたものなのだが、そこに寄せた現在(といっても1998年当時)の彼女のあとがきに
「さて、このエッセイをむかし書いた"私"は、読者から見れば"他者"ですが、二十年後の私から見ても"他者"です。その人はなんだか頭でっかちで気取り屋で、みみっちく子供っぽく、トゲトゲしています。ただ今も解るのは、その人は読者との距離の取り方がどうも上手くなく、やはり無防備に甘えながら、その実怖がって用心していて、近付いたり遠ざかったりしてそのエッセイを書いているカンジがします。では今の私はというと、実はあんまり変わっていないので困ったものです。(本文より)」
一昔前だと、そういう姿を公にして比較なんぞできるのは、著名人の特権だった気がするが、今や、ブログやその他SNSなど電子の中に誰でもがあけっぴろげにさらしている。感覚の麻痺もあるが、時々しか書いていない5年未満のこのブログでさえ、読み返して少なからず思う所がある。もし10代から日記でも付けていたのなら、今になって読み返して青くなったり赤くなったりしながらも、やっぱり変わらないなと感じるのかなと少しもったいなく思った。
60代を迎え今もなお現役の萩尾さんはやっぱりすごい。
彼女の場合は天才(本文からだと天才などはいなくて、天才とは偉大な努力家のことらしい)と言われているが、ここまで続けてきたということ自体が、もっとも価値のあることだと思う。
●『トーマの心臓』 萩尾望都
(2015年10月 漫画)
そんな訳で、初期の代表作をさっそく読んでみた。
一回通読して、その直後もう一回再読した。
すると、見えなかった部分も見えてきた。
何よりも冒頭の詩から、受ける印象がガラリと変わる。
これは…、なるほどね。
多くの人がバイブルとしているのが理解できる。
もしかしたら、キリスト教の教えや精神を理解できないと、かなり難解になってしまうのかもしれない。もちろん私はクリスチャンではないが、倫理で学んだ程度のつたない一般常識でいうところのキリスト教の軸にある"罪・愛(アガペー)・赦し"なのだろう。
私がどうこう一方的に感想述べても、つまらないだろうから、読んだ人と話してみたいかな。
しかし、これ、それこそ10代とかで読んでいたら、どっぷりハマってしまって、かなり引きずってしまいそうだなと思った。
自分が生れる前に描かれた漫画だけに、今になって読んだ方がよかったのか、10代で読んでいればよかったのか、ちょっと感慨深い。今更だけれども。
「どうして
お父さん
神さまは―
そんなさびしいものに
人間をおつくりになったの?
ひとりでは
生きていけないように(本文より)」
●『銀の船と青い海』 萩尾望都
(2015年10月 短編小説)
「白いお花が咲いている」と、悦ちゃんは、枝々にむすんである、おみくじを見ていった。
「お願いごとを、むすぶのよ」とわたしは教えた。
―(中略)―
悦ちゃんはふと、「どこへゆくの」といった。
「何が」
「木にお花がほんとうに咲いたら、お願いごとのお花はどこにゆくの」おみくじは白く光っていた。どこへゆくのか、わたしは知らない。 (本文より)
●『エコノミカル・パレス』 角田光代
しかし、これ、それこそ10代とかで読んでいたら、どっぷりハマってしまって、かなり引きずってしまいそうだなと思った。
自分が生れる前に描かれた漫画だけに、今になって読んだ方がよかったのか、10代で読んでいればよかったのか、ちょっと感慨深い。今更だけれども。
「どうして
お父さん
神さまは―
そんなさびしいものに
人間をおつくりになったの?
ひとりでは
生きていけないように(本文より)」
●『銀の船と青い海』 萩尾望都
(2015年10月 短編小説)
続けざまですが、ちょうど見つけたので、ね。
これは短編小説と詩と画集みたいな感じですが、素晴らしい珠玉の童話集です。とても良かった。
大人というよりも子供にも読んでもらいたい。一編が短いので、すぐに読めてしまうのだけれど、もったいないから少しずつを読んだ方がいいと思う。
ちなみ『トーマの心臓』とちょうど同時期あたりの1974~8年あたりの短編をまとめた様。『トーマ~』でも思ったけど、一見古そうな画風の気がしますが、とても魅力的で丁寧な絵を描くと思う。でも、今の少女マンガに慣れた10~20代の子にしたら、古く感じるのかな…人物とか描き方が全然違うしな。
この本の前半に入っているカラー絵は本当に綺麗。
ちなみに『11人いる!』(漫画)も見つけたので、これも後日読もうと思う。(笑)
これは短編小説と詩と画集みたいな感じですが、素晴らしい珠玉の童話集です。とても良かった。
大人というよりも子供にも読んでもらいたい。一編が短いので、すぐに読めてしまうのだけれど、もったいないから少しずつを読んだ方がいいと思う。
ちなみ『トーマの心臓』とちょうど同時期あたりの1974~8年あたりの短編をまとめた様。『トーマ~』でも思ったけど、一見古そうな画風の気がしますが、とても魅力的で丁寧な絵を描くと思う。でも、今の少女マンガに慣れた10~20代の子にしたら、古く感じるのかな…人物とか描き方が全然違うしな。
この本の前半に入っているカラー絵は本当に綺麗。
ちなみに『11人いる!』(漫画)も見つけたので、これも後日読もうと思う。(笑)
「白いお花が咲いている」と、悦ちゃんは、枝々にむすんである、おみくじを見ていった。
「お願いごとを、むすぶのよ」とわたしは教えた。
―(中略)―
悦ちゃんはふと、「どこへゆくの」といった。
「何が」
「木にお花がほんとうに咲いたら、お願いごとのお花はどこにゆくの」おみくじは白く光っていた。どこへゆくのか、わたしは知らない。 (本文より)
●『エコノミカル・パレス』 角田光代
(2015年10月初旬 再読)
はっきりいってここまで内臓に負担のかかる小説は無い。
今の10代20代は、あまり海外に興味がないらしいが、私が10~20代の時はバックパッカーブームだった、東南アジアの安宿は日本人があふれていたという。現在の国内から出ない若者たちに苦言をする大人もいるが、我々の世代の自分探しや自由を求めて定職に就かずに長期間旅をしてまわっていた者たちが、その10年後の今、見つからなかった自分を抱えて果たしてどうなっているのかと考えると、この小説のあまりのリアル感に戦慄を覚える。
「あの日々を自由と呼ぶのなら、今現在、お好み焼きの材料をそろえるのに三軒ほどの商店をぐるぐるまわって値段をたしかめているこの不自由な状況は、その自由から派生したことになる(本文から)」
たぶん、この本を読んでから、なお一層、ちゃんと就職して給料をもらって働く多くの人たちを切実に羨望の眼差しで見るようになった気がする。
この小説に何も感じない人が、もしいるとするならば、その人こそが、自分の目指すべき未来だったのかもしれないなと、ぼんやりと思ってしまう。
「どのように割に合わなくても、どのように仕事が減っても、決して雑文書きの仕事はやめまい、とつよく決意する(本文から)」というくだりは、呪詛の言葉にしか聞こえない。
去年出た『最貧困女子』というルポルタージュの新書が話題になったが(自分の中でだけかな?)、貧困がためにセックスワーク(その中でも最下層の仕事)で稼がざるを得ない女性たちの救い様のない実態が取り上げられている、こちらは怖すぎて手に取ることすら出来なかったのだが、誰もが未来など思い通りには出来ない、でも少なくとも困難を回避できる"かもしれない未来"のために備えることはある気もする(それでも、落ちる時は落ちるけれども)。
「ブラジャーとパンツだけ身につけて、全身鏡の前に立つ。ブラジャーはレースがほつれているし、パンツは色あせているが、それらのくたびれた下着は私の裸体によく似合っている。
胸の下からパンツのゴム部分にかけての胴部分にくびれがまったくなく、布地をまとったように肉がだぶつき、長いこと陽の光にさらしていないために不自然なくらい白い。
腕を広げてみると二の腕の肉が重力の法則に従って床に垂直にたれる。―(中略)―全体的に肌にはりがない。洟をかんでまるめたまま長いあいだ放置されたティッシュみたいに、ただ白く、しなびた感すらある。醜い。―(本文から)」
話からのダメージはさておき、本当に、上手い書き方をすると思う。だからこの人の本は、読んでしまうのだけれども。
じんわりとした負のスパイラルは、留まる事を知らずに、加速するわけでもなくただ着々と続いていき、ぼんやりとした不安や恐怖はうっすらとした焦燥感を産み、下腹部あたりに滓の様にたまっていく。こうなりたくないと10年前に思いながら、結局この主人公と同い年になった今の自分とは、何が変わらないのだろうかと思い、怖いもの見たさで再読してしまった。
はっきりいってここまで内臓に負担のかかる小説は無い。
俯瞰した文体で未来の見えずらい生活をかいているので、吐き気のする不快感や恐怖というよりも、ゆっくりと徐々に沈殿していく泥の様。
角ちゃん(作者)の初期によくあったフリーター文学で、彼ら(フリーター)のとどのつまりを書いている。
今の10代20代は、あまり海外に興味がないらしいが、私が10~20代の時はバックパッカーブームだった、東南アジアの安宿は日本人があふれていたという。現在の国内から出ない若者たちに苦言をする大人もいるが、我々の世代の自分探しや自由を求めて定職に就かずに長期間旅をしてまわっていた者たちが、その10年後の今、見つからなかった自分を抱えて果たしてどうなっているのかと考えると、この小説のあまりのリアル感に戦慄を覚える。
「あの日々を自由と呼ぶのなら、今現在、お好み焼きの材料をそろえるのに三軒ほどの商店をぐるぐるまわって値段をたしかめているこの不自由な状況は、その自由から派生したことになる(本文から)」
たぶん、この本を読んでから、なお一層、ちゃんと就職して給料をもらって働く多くの人たちを切実に羨望の眼差しで見るようになった気がする。
この小説に何も感じない人が、もしいるとするならば、その人こそが、自分の目指すべき未来だったのかもしれないなと、ぼんやりと思ってしまう。
「どのように割に合わなくても、どのように仕事が減っても、決して雑文書きの仕事はやめまい、とつよく決意する(本文から)」というくだりは、呪詛の言葉にしか聞こえない。
去年出た『最貧困女子』というルポルタージュの新書が話題になったが(自分の中でだけかな?)、貧困がためにセックスワーク(その中でも最下層の仕事)で稼がざるを得ない女性たちの救い様のない実態が取り上げられている、こちらは怖すぎて手に取ることすら出来なかったのだが、誰もが未来など思い通りには出来ない、でも少なくとも困難を回避できる"かもしれない未来"のために備えることはある気もする(それでも、落ちる時は落ちるけれども)。
「ブラジャーとパンツだけ身につけて、全身鏡の前に立つ。ブラジャーはレースがほつれているし、パンツは色あせているが、それらのくたびれた下着は私の裸体によく似合っている。
胸の下からパンツのゴム部分にかけての胴部分にくびれがまったくなく、布地をまとったように肉がだぶつき、長いこと陽の光にさらしていないために不自然なくらい白い。
腕を広げてみると二の腕の肉が重力の法則に従って床に垂直にたれる。―(中略)―全体的に肌にはりがない。洟をかんでまるめたまま長いあいだ放置されたティッシュみたいに、ただ白く、しなびた感すらある。醜い。―(本文から)」
話からのダメージはさておき、本当に、上手い書き方をすると思う。だからこの人の本は、読んでしまうのだけれども。
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