ある教会で、フードバンクなどからの食材の調達を断っている所がある
その理由が、栄養が偏ってしまっているからとのこと
もしも、本当に健康的な食事を提供したいのならば、量よりも質を取らなければならなくなる
また、別の教会では、前述した無料の食事配給を辞めた所がある
そこでは、週に一回、食事を出していた
毎回、ドアの外にまで長蛇の列ができて、120〜150人分を配るのに精一杯であった
200人近くのボランティアが登録して交代しながらこなしていた
いく人かのドラッグやアルコール依存症の人が来ては、いざこざが起きて、言い争いや暴力などの混乱があったそうだ
別に、これはここだけの話ではなく、他の食事配給をしている教会や施設と状況は、何ら変わりがない
だが、この教会は、本当の意味での量より質をとることにした、配給の数の多さと引き換えに一人一人との関係性を重視することにした
無料配布を辞めて、$2支払うないしは、ボランティアをしてもらう代わりに食事を提供する
つまり、労働をすることにより、一人一人が"責任"と働く仲間と繋がりと報酬としての食事を受け取ることになる
定期的にシフトに入っている数人には、food safety(食品衛生管理)をとらせたり、お給料もほんの少しだが出している
今は、50人前後の人たちが、ゆっくりと席に着き、会話をしながら食事を楽しんでいる
その内の30〜40人くらいはここで働いている
テーブルにセットされたお皿とカトラリーに、
きちんとそれの為に選ばれた新鮮で安全な食材で作られた出来たての料理が盛り付けられる
みんなで席につき会話しながら食べる
もちろんデザートだってあるのだ
ここには、もう、ボランティアをする中流階級の人たちは必要なくなった
食事を必要としている人たちが、自分たちのために作り、みんなで食べる
ゲストとボランティアという枠を取り払ったのだ
さて、労働をして得られる食事と、無料の食事と、どちらがよいのか
食べられない人たちにとって、食事を受け取ることは確かに必要だが
無料の食事は、飢餓への本当の解決策になるのだろうか
上記の"チャリティモデル"を作ったソーシャルワーカーが、始動前に、バンクーバー内の食事配給の施設、シェルター、教会を回り調査したところ
列に並ぶ人たちの大半は、正直な気持ちとしては、食事は必要である、が、長蛇の列に並ぶことは、屈辱的であると答えたそうだ
また、食べ物の栄養面からしても、健康的かというと、そうでもない、自分の健康を選び取れないのが現状である
労働の対価としての温かく安全な食事を食べられる、そこは、温かい場所でもあり、仲間もいる
誰かと楽しく美味しい夕食を共にできることほど、贅沢なことはない
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