2019/06/11

⑯墓石のない墓地(2018/6月)Auschwitz-Birkenau編9

アウシュヴィッツ第一収容所と第二収容所のビルケナウは約3km離れている。
現在は、2つの間は、30分毎に無料のシャトルバスが出ているので、それに乗りビルケナウへ。
ポーランドの地名は、ブジェジンカ村という湿地帯の土地。
そもそもこの地域(オシフィエンチム)は、戦前から鉄道の要衝であり、鉄道輸送の合流点であったことが、3つの巨大な強制収容所(今はないが第三収容所もあった)がつくられた一要因となった。
ビルケナウは、各国で捕縛され貨物列車(または家畜車両)に荷物のように詰め込まれた”死の列車”の終着駅となる。
ここ(ランペ=降車場)で降りて、男女に別れて、医者といわれる男に感情の無い数秒の目視(外見と顔色)でガス室か収容か選別させられた。
アウシュヴィッツが男性中心の収容所であったように、ビルケナウには女性の収容所やロマ人(ジプシー)の隔離区域などがあった、そして4基もの巨大なガス室(焼却炉)があり、降車場から次々と流れるように大量の人が、何本もの煙突から煙と灰になって消えていった場所。
ビルケナウもアウシュヴィッツも、
どちらも象徴のようなゲートの写真が有名である。
アウシュヴィッツは、”Arbeit macht frei (働けば自由になれる)”という黒い鉄製アーチの門
ビルケナウは、鉄道の単線の引込み線が続く煉瓦造りの駅舎のような写真。
死の門と呼ばれている。
このビルケナウの中へと続く引き込み線は、1944年の春に完成するので、それ以前は線路のある所まで列車で連行され、そこからは走らされて死の門をくぐっていた。
ビルケナウ内で列車からランペに降ろされるイメージがすごく強いのに、出来たのは敗戦のわずか1年前のことであるのに、驚いた。
しかし、それもそのはずで、ガス室が完備され”ユダヤ人問題の最終的解決”が本格始動するのは、戦争末期のドイツ軍の悪戦や敗戦が続く中、強制移送だけは、より勢いを増していた。(1944年にはハンガリーから44万人が移送される)
線路を辿り、門の中に入ると、アウシュヴィッツと違い、高い建物がなく視界を遮るものがないために空が広く見える広大な草原に残存するバラックが建っている。
綺麗に刈り込まれた草と昨夜の雨で所々に水溜りのできた道を線路沿いに歩いていると、木造バラックでストーブに使っていた煙突(戦後、戻ってきた近隣住民が物資不足の中、暖をとる木材として使うためにバラックは解体された)がポツポツと遠くまで定期的に立つ姿や、証拠隠滅で爆破されたガス室の跡や、追悼碑などが目に入る。
4基あったとされるクレマトリウムは、今はすべて壊されて瓦礫になっているが、もしかしたら壊される前は、視界を遮るように、高い焼却炉の煙突と、そこから常に上がる煙と匂い、300以上あった収容施設、1万人を超える囚人たち、今とは全く違う景色だったのかもしれない。
今は、博物館で働く職員が、ビルケナウは気分転換に散歩へ来たりするというのがわかるくらい、天気が良いと自然公園みたいな感じすらある。
アウシュヴィッツもビルケナウも、敷地内の自然の風景や外景をみて、綺麗だなぁと単純に感じるのは、維持管理をしている職員の方々の行き届いた手入れのおかげだということを、ガイドの中谷さんの著書を読んで知った。
両方の収容所を合わせると160ヘクタールにも及ぶ広大な敷地で、ほとんどが草原だし、冬は雪も積もる、簡単なことではない。
“大変な仕事の一つは下草刈りです。雨の多い年の夏は、2週間も放っておくと草が膝あたりまで伸びてとても見苦しくなってしまいます。ここは歴史を伝える場所ですが、同時になくなった犠牲者のお墓でもあるのですから、遺族の方に失礼にならないようにしなければなりません。(中略)30度を上回ることも珍しくない真夏の炎天下での作業も苦労しますが、秋にポプラの木の葉が落ちる時期も人手がたりません。冬になれば朝から全員で雪かきをして、8時の開園に間に合うようにします。”(中谷剛『アウシュヴィッツ博物館案内』より、ミュージアム維持管理部の方の話を抜粋)
きれいに整備されて当時の面影を感じないと残念がる訪問者もたまにいるらしいが、私は、職員の方々の努力のおかげで綺麗になっているこの場所を見れて本当に良かったと思った。
左側にある巨大な第2クレマトリウムの爆破された瓦礫の前で、ユダヤ教の正装をした人たちが黙祷していた。
彼らが訪れ、祈りを捧げているこの場所が、今は敬意のもとに整えられ、少しでも美しく保たせてくれていることに、ほんの少し救われた気分になった。
ビルケナウを歩いている時に、
私はどうしてもよくわからなくて、中谷さんに聞いてしまったことがある。
私がアウシュヴィッツに行った前日から日付をまたぎその日の明け方近く(〜AM4:30)まで、実は、ベルギーのブリュッセルでEU首脳会議が開かれていた。
様々な議題の中で、大きな争点になったのが”難民・移民問題を巡る問題”だった。加盟国間の深い溝は埋まることはなく、不安定な着地点で徒労の末に朝方閉幕した。
ヨーロッパは、この深い痛みを共通認識として持っているはずで、ましてや中欧や東欧のハンガリー、ポーランドなどまさに癒えることのない傷を抱えているはずなのに、
なんで、むしろ積極的に移民排斥や右極化しているんですか?こんなにも深い傷を持っていて、その痛みを世界に発信し続けているのに…と。
質問を口に出してからすぐに、
あぁ、なんと愚かな質問をしたのだろうと、恥ずかしくなってしまった。
なんと投げやりな、まるで他人事な質問じゃないか。
結局、すべてが、遠いヨーロッパの話だと思っている、いや、思おうとしている。
それに、
中谷さんはこのお仕事をずっとされていて、アウシュヴィッツの生存者ともお知り合いで、色んな想いを聞いていて、しかも、現在ポーランドに住んでいらっしゃる…私なんかよりずっと心中複雑で、思うこともたくさんあるだろう。
ルーツがユダヤ系ポーランド人で、アウシュヴィッツから生還され、戦後イギリスへ渡られたキティ・ハートさんが出ている”キティ、アウシュヴィッツに帰る”という古いドキュメンタリー番組を見つけて見ていた。
彼女は17歳の時から1年半(政治犯として)ビルケナウに収監された。戦後生まれの息子と共に解放されて以来に再び訪れたその地で、彼女は迫り来る記憶と感情で軽い躁状態で、一つ一つの場所を周りながら息子にひたすら話続けていた。溢れ出す忌まわしい記憶の波を口から少しでも吐き出すように。
驚いたことに、彼女は、ガス室の隣の収奪品倉庫(“カナダ”という)のブロックで働いていた。
ガス室と収奪品に関わる収容者は、口封じのために定期的に殺されていたし、ちょうどその頃収容者の反乱で第5クレマトリウムが破壊される事件があったのだが、それにも関わっていたという…(関わる関わらないに関係なく、疑わしくなくても全員殺されたはずである。)
その後、彼女は80歳を過ぎてからも精力的にホロコーストの悲劇を語り継いでいる。 現在も92歳でご健在である。
歴史は繰り返されるというが、過去の過ちを知識として持つ我々は、全く同じ轍を踏む必要はないし、回避することができるかもしれない。
当時は浮かばなかった妙案や、知っているからこそ気づけること、そして、傷の痛さも悲しさも知っているはずなんだから。

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