2019/06/28

⑱人を残忍にするシステム(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編11

※映画「スペシャリスト ~自覚なき殺戮者~」公式HPより
伊藤計劃の『虐殺器官』というSF小説がある。
その小説では、”虐殺の文法”を使った言葉が脳にある特定のモジュールに作用し、虐殺を誘引する、というもの。
案内してもらっている間に、中谷さんは何度か問いかけてきたのが、
なぜ、当時、医学や学術など文化水準が高いドイツで、このようなことが起きたのか…と。
そして、囚人の中にもカポ(監視役)というヒエラルキーを作り、それによりさらに劣悪な環境に陥っていたことも言及してから、
ある特定の条件(支配体制のシステム)が、このような悲惨な状態を作り出す一つの要因だというような話をした。
そして、アメリカの大学で、そういった心理学の研究がされ、結果がでているとの話をしていた。
だから、そのような状況(環境)を作らないようにすることが大事だとか、そんなことも言っていた気がする。
そういった心理的思考に陥る状況とは何だったのかと、ずっと頭に残っていた。まるで虐殺器官ではないか。
たぶん、彼が言っていたのは、ミルグラムの実験のことだったのだろう。
社会学者ハンナ・アーレントが、
戦後逃亡の末、モサドにより南米で逮捕されたアイヒマン(ユダヤ人大量虐殺を指示したナチス高官)のイスラエルでの裁判(1961年)を傍聴し、発表した著書『イェルサレムのアイヒマン』の中で、大量虐殺を指示した人間が、冷酷無比や猟奇的な人格ではなく、あまりに凡庸な何処にでもいるタイプの人間であったと書いて、”悪の凡庸さ”という表現をした。
ミルグラムもまた、この裁判を受け、”ごく普通の人間でも、権威や権力に盲目的に服従することで、平気で大量虐殺を行えるのか”というテーマで、翌年から”一般の人”を対象にいくつかの実験をする。
スタンレー・ミルグラム
アメリカの社会心理学者。イェール大学在職中に、社会におけるヒトの習性についてのいくつかの実験をする。その中でとりわけ有名なものが、電気ショックを使った”権威に対する服従実験(通称:アイヒマン実験)”。これは、興味深い(衝撃的な)結果が反響を呼び、また実験内容が倫理的に問題があると物議にもなった。(実験内容は、wikipediaにあります)
“実験の結果は、普通の平凡な市民が一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことを証明するもので、そのような現象を「ミルグラム効果」とも言う。”(Wikipediaより)
最終的に他人への罰として最大電圧(450ボルト)を使用してしまうにしても、その過程には何パターンかあるようだった
⑴実験に賛同し進んで罰を実行する人
⑵何も考えずに命令されたから(規則だから)、とにかくノルマのように従う人
⑶内心では抵抗を感じながら(口頭でも抵抗しながら)仕方なく服従する人
しかし、⑴であろうが⑶であろうが、悲鳴をあげ中止を乞う心臓の弱い相手に最大電圧を与え続けた被験者は、全体の6〜8割以上もいた。
“ヒトは権威に命じられると(そして責任を取らなくていいと保証されると)どんな残虐行為に対しても葛藤やストレスを無視できる”(ミルグラム)
これを”代理人状態”という。
”代理人状態の人間が得意な言い訳が、「自分の仕事をしただけ」、「私の仕事じゃない」、「規則を決めたのは私じゃない」、命令に従うことが行動基準です。他人の要望を遂行する道具のようになるのです”(ミルグラム)
ミルグラムは、1974年にその実験をまとめた『権威に対する服従』(邦訳『服従の心理―アイヒマン実験』)を出版。日本だと10年近く翻訳本が絶版扱いになっていたが、2008年に新訳で再版された(再版本を既読)
ミルグラムの本によると、ヒトの進化や生存においてヒエラルキー的な構造は有利であり、その中では良心や人間性に反してでも往々にして集団圧力に同調しやすく、権威には服従してしまう傾向にあるが、それは人類の習性に近く、人格的な問題ではないとし、また、こうした現象に陥らないために、個人でしっかりと考えや意志を持ち対抗する強さが必要とした。
ハンナ・アーレントもまた、
“アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。 その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように”(映画『ハンナ・アーレント 』劇中スピーチより)
その後、ミルグラム実験を再現したドキュメンタリー『ショックルーム~伝説の“アイヒマン実験”再考~』(2015年/オーストラリア)を見た。
ここでは、上記(ミルグラムとアーレント)の結論に疑問を呈している。
心理学的に、代理人状態が起きることで、”善良な人”でも権威によって選択の余地もなく残虐なことをしてしまうという。では、悪い行為をしても仕方がなかったという前提だと、その行為者には責任はないのか?
また、上からの命令をお役所仕事でこなしてきたとされるアイヒマン
“私の罪は従順だったことだ” “大海の中の一滴 、上級権力の手中にある道具”(アイヒマン)
しかし、1945年、ドイツの敗色濃くなる中、保身に走った上層部からの虐殺中止命令を無視して、アイヒマンは独断でハンガリーのユダヤ人の強制移送を続けていた。
つまり、彼は盲目的で従順な子羊ではなく、ユダヤ人排斥への自覚と信念があり、自分が正しいと思ったからの行動ではなかったのか?
それと同じように、ミルグラム実験で服従してしまう大多数の被験者は、
自分は正しいことをしているという信念と自負があり(崇高な科学や未来に貢献しているという思い込みや、被害者の出来の悪さに不快感をしめした例もある)、むしろ”積極的な協力者”ではなかったのか?
また、”ミルグラム効果”(普通の平凡な市民が一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことを証明…Wikipediaから参照)とあるが、
その場合、命令されればされるほど、ヒトは従順に機械的に服従するはずである。
しかし、多くの場合、指示が命令的になると、反抗する割合が高くなるそう。
“続けてください。続けてもらわないと困ります。”という言葉に渋々も従っていた人が、“あなたには選択の余地が無い。絶対に続けてください。”と命令的に言われた瞬間、ものすごく反応しだし”選択の自由”を主張しだす結果が出ている。
まとめとして、ミルグラム実験が伝えたものは、服従と非服従の実験ではなく、選択は自分の中にあるというものではなかったのか?
また、選択肢があるのならば、命令した人間だけでなく、その命令を選択したヒトにも責任があるのではないか?
と、いうようなことを再考していた。
ちなみに実験場面の再現はなかなか迫真的で驚いた。
さて、
ナチスの中でも、収容所内でも、囚人の中でさえ作られた支配体制(ヒエラルキー)のもっともわかりやすい図が下のピラミッド構造になるのだが、(100分de名著より)
この構造を作ることで、指導者から指示を受けた側近の命令はエスカレーター式に流れる。
直接手を下すのは最下層のシンパになるが、責任に関しては常に上にあるので思考することもなく機械的な手足となる。 しかし、党員〜エリートに関しても責任回避ができ、また、上に行けば行くほど肉体的にも精神的にも負荷が減っていくため、罪悪感もなく、判子やサインで人を消せることになる。
つまり命令を従うことは、自分より上位の者の代理人となることになり、その責任の所在は自分にはなく、また善悪の判断や難しい決断などをする必要もないので精神的負荷が減り効率も上がる。
また、明確なピラミッドは、上昇志向を刺激するため、従順に服従することで出世することが出来、より良い生活、食事、仕事、秘訣(秘密)、などを手にすることができるのではないかと従順さを加速させる。
これは軍事国家やカルト教団に限った話ではなく、企業や宗教など現代の社会システムがほとんどこの形になっている。
これがたぶん人を残虐にするシステムの大まかな流れなのだろう。このシステムを作れば服従によりいくらでも”善良な人”を殺戮の機械人間とすることができると…
ミルグラムが1961年からの実験を10年後(1974)に著書でまとめた際、アメリカでは、ベトナム戦争只中で、反戦の機運が高まっていたこともあり、最後にベトナムで起きたソンミ村の虐殺事件を少し引用していた。
またこの本の2004年版の序文を書いた友人のジェローム・S・ブラナーがイラクのアブグレイブ監獄で起きた悲惨な拷問と虐待を引用していた。(これはミルグラム効果とは違うと思うのだが…)
そして、日本でミルグラムが近年少し話題になったのは、日大ラグビー部のタックル問題でではないかな…(それか尼崎事件かな…)
また訳者の山形浩生は、あとがきにルワンダの大虐殺を引用していた。
そして、蛇足としてこのミルグラムの服従実験批判をしている。(あとがきが面白かった!)
そこにもあったのだが、私も本文を読みながら不思議に思っていたのが、ミルグラムがヒトに対して性善説で話を進めていることだった。”普通の人は他人を理由なく傷つけたりはしない”という前提のもの。
いくつかのドキュメンタリーや戦争体験のものを見ていて感じるのは、性善説など妄信者の戯言でしかないと思った。
あるドキュメンタリーで、ハンガリー人のおじいさんが、目を爛々とさせながら、ユダヤ人狩りの話をしていた。見つけて引きづりだし、財産を奪った上で、収容所へ送り1人も帰って来なかったこと、そして、自分が子供の時に家族が、あるユダヤ人にひどい目に遭わされたから、そうなって当然だったと話していた。
インタビュアーが、
そのひどい目に遭わせたユダヤ人と、あなたが捕まえたユダヤ人たちは違う人ですよね?と聞くと。
目の光が消え、ボソボソと、しかしユダヤ人だし…と言い
しばしの沈黙の後に、下を見ながら
…悪くない人たちもいた…と小さく答えた。
ポーランドの小さな町で起きた、非ユダヤ系住民たちによるユダヤ住民の集団リンチ虐殺事件であるイェドヴァブネ事件は、ドイツ軍の関与はなく、平時には”善良な”住民が自主的に行ったとされる。
第二次世界大戦だけではなく、
前述のアブグレイブ監獄の拷問やルワンダの虐殺は、むしろ嬉々として映ってみえた。
相手をヒトとして見ていないからか、とも思うが、その人たちが日常的に動物虐待を好んでいるとも思えない。
そもそも、正しさや正義は、時代や状況で変わる非常に曖昧なもので、そのフワフワしたものに道徳や倫理というものが塗り付けられたのが文明であると思う。
もともとヒトは善でも悪でもないから、成長過程で塗られたその不安定なメッキは、フッとした瞬間に簡単に剥がれ、むき出しの生命の塊が出てきてしまうんじゃないかと思った。
野生的で狡猾で、好奇心と危機に敏感で、他者を顧みない生き物としての生存本能だけの塊。
それが文明社会では悪とされているだけなんじゃないかなと…思ってしまった。
もちろん、犯罪や残虐行為をまったく肯定するわけではないが、ヒトが悪意によるコントロールで意志を消され残虐になるのではなく、弱者を虐げたりすることは、ヒトが根源的に持っている動物的本能なんじゃないかと、思ってしまった。
いや、私の考えもまた、すごく偏ったものなのかもしれない…。
10代からヒトラーユーゲントに入り、熱烈なヒトラー信奉者で、最後は最前線で戦い、アメリカの捕虜となって終戦を迎えたある元ドイツ兵のおじいさんがドキュメンタリーで話していたのだが、捕虜の時に、何回も見させられた映像があるという、
それは、連合国軍が解放した強制収容所での、やせ細った囚人の様子や死体の山などの映像。
お前たちは、ナチスの元でこんなことをしてしまったのだと、お前たちがみずから選んだ政権によりしてきたことだ…お前たちに責任がある、と
しかし、当時の彼には、その意図は全く届かなかったという、自分のこととして考えられず、他人事のように”酷い映像だ。”と思っただけだという。
もう一つ、
アイヒマン裁判で証言され、またハンナ・アーレントも指摘し、そして、たしか中谷さんもガイドの途中で触れた気がしたが、
このナチスのユダヤ人絶滅計画に一部のユダヤ人(シオニスト)権力者が関わっていたという事実がある。
民族を生き残らせるための苦肉の策だったのかもしれないが、それにより、より多くの生命が奪われたことも書いておく。

2 件のコメント:

さくらママ さんのコメント...

こんにちは。
お元気ですか??
これを読んで、昔観た映画 esを思い出しました。

ふくちあやこ さんのコメント...

さくらママさん
こんにちは。
『es』は見たことがなかったのですが、監獄実験を基に作られているんですね…
なかなか観るのに勇気のいる映画のようですね。