2019/03/23

⓮歴史修正主義(余談) Auschwitz-Birkenau編7


大学のころ、単位が楽に取れるという理由で文化人類学の授業を取っていた。
遅刻して、大きな講堂の1番後ろの席に着くと、ちょうど室内が暗くなりスライドが下され映像が流れ始めた。
赤と黒の強い色彩が画面に映り、白人の坊主頭の若者たちが右手を挙げ叫んでいた。
別に暴力映像でもないのに、赤と黒とスローガンの様に腹の底に響くような声が不穏で、なんだか恐怖を感じた。
それが私にとって、初めて見るネオナチだった。
日本の歴史(戦史)の真偽を喧々囂々と争っている人たちが、国内外でいることは知っている。
その両極に右翼と左翼の影がチラつくのと同じように、
ホロコーストに関する歴史修正主義の主張は、ネオナチズムの近くに存在している。
言論や表現の自由というものがあるが、ドイツとオーストリア(もちろんイスラエルも)では、ナチス式敬礼(右手を斜め上に掲げる)や鉤十字のマークの公共の場での使用は法律で禁じられている。
また、ナチズムを擁護する活動や言論も同じく法的に禁じられている。
つまり、個人はともかくも、公共の場においてナチスに関わるものが全て法律で禁止されている。”ナチス”という部分に言論統制が敷かれている。(民衆扇動罪”Volksverhetzung”)
また、これはインターネット上でも適応される。
少し古いドキュメンタリーを見つけた。
『ユダヤ人虐殺を否定する人々』(1992年)
歴史修正主義者やホロコースト否認者、それと反ユダヤ主義やネオナチとのつながりについてのドキュメンタリーになる。

ここに出てくる歴史修正主義デイヴィッド・アーヴィングは、2000年〜2006年に実際にあった訴訟(映画化したものが2016年公開の『否定と肯定』)の中で、
(※”Denial” 2016 film/en. Wikipedia)
また、ガス室を否定する自称・処刑装置専門家フレッド・ロイヒターは、1999年のドキュメンタリー映画『死神博士の栄光と没落』の中で、
皮という皮が綺麗に剥がされている。
(※”Mr. Death: The Rise and Fall of Fred A. Leuchter, Jr” is a 1999 documentary film by Errol Morris/ en. Wikipedia)
そして、アーヴィングと実際の裁判を戦ったユダヤ系アメリカ人学者デボラ・リップシュタットのTEDでのスピーチは、陰謀論、フェイクニュースに溢れたPost Truth時代の現代だからこそ、より聞く価値があると思う。(Post-Truthももう古いのかな…Alternative Factsかな)
むしろ、否認者たちのドキュメンタリーよりも、彼女のTEDを見た方が良いですね…
ホロコースト否定説の嘘に潜むもくろみ』by Deborah Lipstadt

(上記のTEDを見てもらえたら、一番わかりやすいのだが、)ここで明記したいのは、
歴史修正主義者アーヴィングvs歴史学者リップシュタットの裁判の争点は、なんだったかということなのだが…
リップシュタットが自身の著書で、ホロコースト否認者の実名を挙げて批判したことから、中傷しているとして、版元とリップシュタットを相手取りアーヴィングが名誉毀損で訴えたのだ
これは、イギリスの法廷で行われた。
イギリスは、ドイツやオーストリアとは違うのでホロコーストでの虐殺否認やナチス擁護の発言をしても法的に問題はない。
その上、イギリスは名誉毀損訴訟の場合、被告側に立証責任があるので、無視したら自動的にアーヴィング(ホロコースト否定)側が勝訴してしまう。
つまりリップシュタットは、裁判の中でアーヴィングが故意に史実を捻じ曲げて主張している、ないしは、間違ったソース(情報源)を元に主張している、ことを証明しなければならないということになる。
その難しさや危うさは、想像に難くない。
先日、日本人のホロコースト否定論者の方のツイートが、少し話題になっていた。
日本において、ホロコースト否認も歴史修正もネオナチも(明らかな差別言動以外の)ヘイトスピーチも、法律での明確な規定はなく、逆に表現の自由という絶対的な盾があるので、あまり問題視されない。
だから、本当に心からそう信じているならば、それを主張しても問題はない。
それで、不快に思う人や、深く傷つく人がいてもだ。
(地位や名誉や財力なども含め)”声”の大きい人が声高に叫べは、多くの人を扇動することも簡単にできる。
たとえ発信源が、独断と偏見や、不勉強や、偽物や、意図した悪意や、仕掛けであったとしても、”真実”より面白く劇的で”声”さえ大きければ、それは”真実”よりも色みと重みと旨味を増して、簡単に”真実”はすげ替えられる。
自由とはなんて素晴らしいのか…革命的で最強である、振りかざす分には絶対防御の盾となる。
が、それが我が身に牙を剥いた時に、自由とは最強最悪な矛となり、守るすべもなく無残に我が身は貫かれるだろう。
言うまでもないが、ナチスを主導したヒトラーがまさに、この手法で憎悪により民衆を扇動した。(戦後ドイツは、民衆扇動罪を作る)
戦前にナチ支持者だったが、違和感からすぐ反ナチ運動に転身し、その後、弾圧されたドイツ人神学者マルティン・ニーメラー牧師の有名な言葉がある、”First they came for the Communists (彼らが最初に共産主義者を攻撃したとき)”。
これは、見て見ぬ振りをするサイレント・マジョリティに対する警鐘でもあるのだが、自由の名の下に押し黙る現代の成れの果てな気もする。
First they came for the communists, and I did not speak out—because I was not a communist.Then they came for the socialists and the trade unionists, and I did not speak out— because I was neither.Then they came for the Jews, and I did not speak out—because I was not a Jew.Then they came for me—and there was no one left to speak for me.(”First they came for the Communists”)
ナチスが最初に共産主義者を攻撃したとき、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。つぎに彼らは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。つぎに彼らはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。そして、彼らが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。(”彼らが最初に共産主義者を攻撃したとき”より)
ひとつ書き足しておくと、2つ前の記事(⑫黄色い星)にも少し書いたが、ユダヤ人団体は強大であるため、権力やメディアの中枢への圧力がかなり強い。
それは、宗教や他民族に疎いこの日本でさえそうだ。(文藝春秋の雑誌マルコポーロの廃刊騒動においてもわかるように。)
だから、日本メディアは触らぬ神に祟りなしと、全てスルーする傾向にある。
たぶん、今回の否認発言のツイートもテレビでは取り上げないかもしれない。
これは、ある種の見えざる言論抑圧なのかもしれない。
それに、そういった団体の大きさや強さに比例して、嫌悪し対抗し相反する人たちも増える傾向にある。
そしてなによりも、SNSは個人の領域だが、発言力や知名度のある人のSNSは、テレビ以上に拡散する時代である。
アメリカ大統領が、そうであるように。
悲しいことだが、それが事実であれ虚偽であれ目立てばいいのだ。
目立つことが正解であり事実であると、多くの人が思い込んでいるのだから…それがオルタナティブ・ファクト(代替的事実)なんだろう。
(※ワルシャワの美術館で額装の同じ物があったのだけど、私のは写真が悪すぎたので…ポーランドのギャラリーHPから/Lego. Concentration Camp, 1996, box design, archive material, 78 x 71,5 cm/Raster gallery)

冒頭の作品も、ワルシャワの美術館で撮ったのだが、アーティスト名は忘れました…題材は、ホロコースト。