2019/03/22

⑬コルベ神父(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編6


高校の倫理の授業で、コルベ神父のことを初めて聞いた。
不思議なことに、仏教の章で、菩薩は実在するのかというところでの話だった。
アウシュヴィッツと聞くと、歴史や文学よりも、その倫理の授業を思い出す。
その時、私は心を動かされ、ノートの隅に、その情景のイラストを簡単に描いていた。
その頃の私は、ナチスと言えば、イコールでヒトラーだったので、ヒトラーの憤慨した顔を描き”餓死刑(ともぐい)”と書き、相対する様にその横に、”なかよし!”と書いて、手を繋ぎ円陣を組み、にこやかに歌を歌うコルベ神父と他の囚人たち(なぜか子供たちも)を描いた。
勝利!と最後に書き込んだそのイラストのコルベ神父に、無意識に光背を描いていた。
私が想像した情景は聖書の一節のようでもあり、人はそこまで他者に献身的に自己犠牲を貫くことができるのかと、信じられない気持ちでもいた。
それからも聖人的な行為を聞くにつけて、描いたイラストの穏やかな顔のコルベ神父を思い出してはいたが、数年後にたまたまコルベ神父の写真を見た時に、予想外で驚いた。
丸眼鏡を掛けてとても生真面目そうであり、また険しい顔をされていた。
(※ Maksymilian Maria Kolbe /pl.Wikipedia)
マキシミリアノ・マリア・コルベ
ポーランド人のカトリック司教
彼は30代後半、アジアへの布教の一環として長崎県に数年滞在していた。
(遠藤周作”女の一生”などにも出てくる。)
戦争が始まり、ユダヤ人ではないが、1941年、彼が47歳の時、強制収容所に送還。その頃、宗教者や教師、ジャーナリストやアーティスト、政治家など有力者や知識人も政治犯として多くが捕まっていた。
ある日、コルベ神父と同じ号棟の囚人が脱走した、同罪として40名あまりの中から無作為に餓死刑が10名選ばれた。
その中の一人が、妻子の名を叫び命乞いをしたのを聞き、コルベ神父は、自分には妻も子もない神に捧げた身だと、身代わりを申し出る。
この餓死刑は壮絶で、食事はおろか水も与えず、暗く狭い地下牢に10人まとめて閉じ込める。次々と衰弱し死んでいく中、錯乱してしまったり、耐えきれず相手を食べてしまうこともあるという。
コルベ神父は、小さな声でずっと祈り歌っていたという。同じ部屋にいる人たちを励まし続け、その静かな歌声に、声はいつしか重なりあって、他の人も掠れるように最後の時まで祈り歌い続けていたという。
監視役(囚人)も、その神聖な光景(そこでは異様な光景)に、心奪われていた。
次々に周りが死んでいく中、2週間たっても途切れ途切れに聞こえてくるコルベ神父の祈りと4人の生存に、報告を受けた監視官(ナチ親衛隊)は驚き畏怖を覚えたのか、最後はフェノール注射で殺害された。
自己犠牲的な行いと同時に、授業中に私を引き付けたのは、その死に至る過程だった。
本当にそんなことができるのか…と。
1982年、ヨハネ・パウロ2世法王により、列聖(聖人になる)された。
"The Patron Saint of Our Difficult Century"(我々の困難な世紀の守護聖人)
「アウシュビッツの聖者」とも呼ばれている。
ワルシャワの旧市街を歩いていると、教会の前にアートがあった。
↑アウシュヴィッツの線路脇のランペ(降車場)に立つ連行された人たちを紙で表現していた。説明にはコルベ神父について触れてあった。
そして、ワルシャワでもクラクフでも彼の祭礼壇がある教会があった。
そもそもアウシュヴィッツに訪れようと思えたのも、コルベ神父の話を知っていたからかもしれない。
アウシュヴィッツの一番右端の奥にある11号棟は死のブロックといわれ、簡易裁判所と、壁に囲われた処刑の庭(写真左奥、銃殺刑の死の壁)と、独房や拷問牢がある。(外が見えない様に窓が半分以上塞がれている)
ここは、ガス室が作られる前に大量処刑(主に銃殺)に使われていた場所で、ガス室の試作として使われた場所でもある。
その地下牢(18号牢)はコルベ神父の殉教地として、国内外のクリスチャンを問わずコルベ神父を知る人が巡礼している。
(※Pope Francis prays at St. Maximilian Kolbe’s cell in 2016 /Centro Televisivo Vaticano)
2016年に現フランシスコ法王が、アウシュヴィッツへ訪れた際、コルベ神父のいた餓死刑の地下牢でお祈りしている写真。この日は、コルベ神父が死刑を宣告をされてちょうど75年目にあたる。今はこの牢には寄贈された献灯のためのロウソクが置かれている。
コルベ神父がはじめに収監されていた17号棟の壁には、コルベ神父の囚人番号16670と共に彼のメモリアルプレートがはめ込まれている。
コルベ神父についての本を読みたかったが、大概が教会関係の出版社になってしまい、読みたいのはそうじゃないんだよな…と、思っていたら、たまたま図書館に信者以外な著書の本を見つけた。
読んで気づくのが、神に対して常に正直で潔癖で、そして頑ななまでに意思を曲げない頑固さ(意思の強さ)があった。
実際、肉体や精神の苦痛が際限なく続いても、生き地獄を目の当たりにしても、少しも疑うことなく、盲目的に神を信仰している。
ここまでくると、大概は信仰はあれど、人の営みとは別問題だと考えてしまうもの(迷い割り切る)と思う。
現に、宗教関係者はたくさん捕らえられていたし、同じ様に弾圧され命を落とした人もたくさんいる。
その中で、慈悲の心を持ち、神の教えを解き、飢えに耐えながら自分のパンや水を他人に分け与えた人もいたかもしれない。
しかしコルベ神父以上に、アウシュヴィッツでの逸話は伝えきかない。それが当然で、コルベ神父が異様なのだ。
その当時、ナチスを擁護する宗教者もいたし、火の粉を恐れて見て見ぬ振りをするのが基本姿勢だった。
バチカンでさえナチスの蛮行は黙認していたし、一部は戦後にナチスの戦犯の逃走を幇助したとされる。
またその後の時代も、様々な問題(性犯罪など)が露点していることもあり、
現フランシスコ法王が選出された時に「過去の亡霊たちを追放し、教会を近代化するために就任した」と話していた。
また、2代前の第264代ヨハネ・パウロ2世法王はポーランド出身で、在任時に初めて法王としてシナゴーグに訪れ教会が戦争時にユダヤ人に対して行った蛮行に謝罪を表明している。
全ての宗教者が常に慈悲深く潔白で博愛精神に満ちているとは限らないのは、歴史の中でも、どこの宗派を見ても明白なことである。
逆に、宗教などに関係なく、聖人のような人物もいる。
これは、個人の資質に近いとも思う。
アウシュヴィッツにおいて、何も考えることのない従順な人形が必要だった。恐怖で従わせ、使えなくなれば捨てる。
そこに、思考や、ましてや総統以外の信仰心など不必要だった。
つまり、頑固で神しか信じない男ほど、収容に不適合な人間はいない。監視官は、ことさら服従を強要し、重い罰を与え続けたという。
自分の意思を通すのが非常に困難な時、人は妥協したり諦めたり、ないしは改心を装うことができるし、普通はそうして迎合し、従う方がずっと楽な道を歩ける場合がある。
それをしない彼は、周りの囚人からも不器用で融通のきかない、ないしは、純粋無垢に痛々しく、または、狂人としてうつっていたのでないだろうか。
そして、そういう人ほど生きてはいけず、いち早くなぶり殺されるのが強制収容所だと思う。
もしも、彼が起こしたことに奇跡があるというならば、
それはそのコルベ神父が助けた人が、アウシュヴィッツや違う収容所なども含め5年以上収容されたにも関わらず、生きて解放され、その後93歳まで生きていらっしゃったということが、最大の奇跡だと思う。
生き残ることが必ず楽園ではなく、あの時は命乞いをしたが、その後の彼の人生の中で何度死にたいと、その方が楽だと思っただろうが、自分の命の重さを知る彼には、生きることしかなかっただろう。
さて、これはあまり言いたくはないのだが…前回の流れから今回の話をしたのは、ヨーロッパにはカトリック信者が多く、発言力や発信力がものすごく強い。だから、コルベ神父の話も、ここまで有名になったのも、うなづける。
これが、他の宗教、ないしは何にも属していない人だったら…と比較するような野暮なことはしたくはない。
たとえ多少のバイアスがかかっていたとしても、コルベ神父はやはり私の中では、いつまでもイラストに描いた聖者であると思う。
彼に命を救われた人は、93歳まで命のロウソクの火を大切に灯し続けたのだから。

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