近くに大きなお寺があるところに住んでいた
そこでは、月に一度大きな縁日があり、よく遊びに行った記憶がある
縁日ではたくさんの屋台が出ており、
地元の人に限らず遠くからも、お年寄りから子供までやってきていて毎月とても賑わっていた
そんな賑わいの中で、いつも人々が遠巻きに過ぎ、見ないように避けて、
ポカリと開いた空間があった
ラジカセから大きく流れる軍歌
白装束に旧日本軍の軍帽をかぶり
四つ這いになって頭を垂れた
足のない人、手のない人…
目の前に木の募金箱を置いていた
太平洋戦争の傷痍軍人
あまりの異様な光景に、眼を奪われて、怖くて仕方ないのに、見てしまう
この世に存在しているのかどうかさえわからなかった
それくらい異質だった
なんだろう…この人たちは…
何をしているんだろう…
なにか悪いことをして謝っているのかな…
なんだか悲しくて怖くて、腹が立った
音の割れた大音量の軍歌も嫌だったし、
白装束に、よれた黄土色の軍帽も嫌だったし、
手足が無い身体でコンクリートの上に痛々しく四つ這いになり、
何より、無言でこうべを垂れているのが、嫌だった
人が、よりによって大人が、
惨めな格好をしているのが受け入れられなかった
彼らに対する小学生の私の感情は、ネガティヴなものだけだった
道行く人に断罪されているみたいだった
私にも、彼らの断罪を強要されている気がした
世間はバブルの末期で
道を歩けば500円玉が転がっていた(私の記憶では)
街はギシギシと、ジェットコースターの頂上辺りまでのぼり詰めていて、
から騒ぎのような状態で、点滅する光の中で羽根のついたセンスをひるがえして赤い口をした大人が踊っている時勢だった
その中で、まるで時代錯誤のような風景
目にしていたのは、夏だけではないはずなのに、夏になると亡霊のように思い出す
中国残留孤児だった老人たちの肉親探しを呼びかけるNHKのテレビ放送も
街で断罪をうけるようにこうべを垂れる傷痍軍人も
昭和という年号とともに姿を消していった戦後の亡霊
カンボジアに行った時に、ポルポト圧政下の傷跡が生々しく
地雷で手足を無くした人たちが、やはり物乞いのように、アンコールワット遺跡のそこかしこにいた
まるで風景のように溶け込んでいたが、彼らは決してこうべは垂れていなかったし、
周囲の人々も避けてはいなく、むしろ商売敵くらいの勢いだった
ベトナムでもそう
軍人と民間人とかの違いなのかもしれないけれど、
太平洋戦争末期の軍人のほとんどは民間人だったはず
東京だと昭和40年〜50年あたりが傷痍軍人の姿を見かけた最後だというが、
なぜか私が見かけたのは昭和60年あたりだった
調べたら、やはりあの地域の私が見かけた彼らの姿が、本当に最後のようだった
戦後72年
昔ほど表立ってはいないが、今もなお、ご存命の方や、問題を抱えている方もいらっしゃると思う
映画やドラマで再現された昭和の三丁目"などを懐かしむ人がたくさんいるらしいが、
それのどこにも、傷痍軍人も中国残留孤児も描かれていないことを気付く人が、何人いるんだろう…
見ないように避けて、記憶から消してしまおうとしているのは、
悲惨さなのかな、それとも現実なのかな
って、エレクトロとかドラムンベースとかクラブミュージックをヘッドフォンで聴いて制作しながら、こんなことを考えている自分の頭は、だいぶ狂っている気がする…
藤城清治さんの展示にあった作品 |
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山形市の恵埜画廊での展示が終了いたしました。
お暑い中、お立ち寄りくださった方、お気にかけてくださった方、
みなさま、本当にありがとうございました。
山形は、今、花笠まつりの真っ最中だそうです。
暑かったり、激しい雨が降り出したりと、
少し不安定な気候が続いておりますが、どうぞご自愛くださいますように。
本当に、ありがとうございました。
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