2019/02/15

⑪遺されたカタチ(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編4

アウシュヴィッツの中で有名な展示物に、大量の収奪品(遺留品)がある。

大量のメガネ、大量の義足、大量の食器、大量のカバン、大量の靴…大量の毛髪

とにかく大量にある。

メガネは、使い古し絡み合った巨大な金たわしのようにも、針金のオブジェのようにもみえた。

食器などを持って来た人たちは、もしかしたら、日常に使っていたものを持ってくることで、子供を安心させたかったんじゃないかと、話していた。

カバンの表面には名前と住所が大きく書かれていて、いつか手元に戻ってくると思ったのだろう。

髪の毛は、まるで収穫された大量の羊の毛のように見える。色は抜けたため全体にほとんど同じ様な色をしている。長い三つ編みのままの髪もある。

そして、2階展示室に上がったとたんに息を呑む。
ガラスの奥で横たわる巨大な生き物のような大量の靴、靴、靴、靴、くつ…


ガラスの壁の中で、全てのものが、種別に分かれて、そして大量に積み上げられていた。
何千、何万と…それが一つの茶色い塊に見えた。

人の認知能力は、あまりの量に圧倒されると、細部や一つ一つに目などいかなくなるんだと思った。
私はそれをぼんやり眺めていることしかできなかった。

塊の前にいくつかバラバラに置かれた個体を見て、
あぁ、これは靴なのか…メガネなのか…と、把握するが、
その奥にある茶色い大きな塊を見て、これは何だろうかと、思考がまたはじめに戻る。

後から思うと、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の中の展示物で、私にとって1番生っぽい(という表現で良いのか…)展示がこの大量の遺留品だった。

あの時、無意識に思考をシャットアウトしていたが、思い出すと少し気持ち悪くなる。
あの一つ一つに持ち主がいるという事実と、その持ち主が殺されて展示されているという現実。
死体のないあの場所で、何よりも視覚から人間の匂いを感じるものだった。

帰ってきてから、小川洋子の『アンネフランクの記憶』を読んで、アウシュヴィッツでの感想が、あまりに似ているのに驚いた。きっと誰もが同じように感じるのかもしれない。
収奪品の展示についての箇所を少し抜粋する。

“ただ数の多さに圧倒されているだけでは、想像力が働かなくなる。この山を無数という一言で片付けてしまうと、本当のことを見失う恐れがある。今ここにあるのは、一つ一つの死の重なりだ。”
(『アンネ・フランクの記憶』より抜粋)


廊下に左右の壁にぎっしりと貼られた証明写真。丸刈りの囚人服を着た無表情に一律に同じ様式で撮られた写真。男も女も老いも若いも、何をしていたかも、何をしてきたかも、誰であるかさえ区別のつかない、名前と個人を剥ぎ取られた人たちの写真。

写真の下には、
“囚人”番号、名前、生年月日、職業、
そして1番下の段に、収容日と死亡日。
ここにある職業には、政治家や役人の他、教育関係者、聖職者、芸術家など、知識人や宗教者、文化人がたくさん目に付いた。
(※Photo by Hamilton Lima on Unsplash)
この証明写真のほとんどは初期に収容されたポーランド人政治犯のもので、その後の大量に送られてくる抹殺対象のユダヤ人、ロマ人、スラブ人、ソ連捕虜は写真など撮る時間も手間も与えられはしなかったのだろう。大量の人数を素早く把握し処理するために、その後、左腕に囚人番号を刺青としてナンバリングするようになる。

アウシュヴィッツでの体験を記録した名著と言われているプリーモ・レーヴィの”これが人間か”を読んだ時に、この行為の意味が余計に腑に落ちた。

本書序盤、当時24歳のレーヴィが、イタリアで捕らえられ、アウシュヴィッツ第三収容所モノヴィッツに着いた時の部分を少し長めに引用する。
“…そこで私たちは初めて気がつく。(中略)私たちは地獄の底に落ちたのだ。これより下にはもう行けない。これよりみじめな状態は存在しない。考えられないのだ。自分のものはもう何一つない。服や靴は奪われ、髪は刈られてしまった。話しかけても聞いてくれないし、耳を傾けても、私たちの言葉がわからないだろう。名前も取り上げられてしまうはずだ。もし名前を残したいなら、そうする力を自分の中に見つけなければならない。名前のあとに、まだ自分である何かを、残すようにしなければならない。
(中略)…毎日のささいな習慣に、自分のこまごまとした持ち物に、どれだけの意味と価値が含まれているか、よく考えてみてほしい。(中略)さて、家、衣服、習慣など、文字通り持っているものをすべて、愛する人とともに奪われた男のことを想像してもらいたい。この男は人間の尊厳や認識力を忘れて、ただ肉体の必要を満たし、苦しむだけの、空っぽな人間になってしまうだろう。というのは、全て失ったものは、自分自身をも容易に失ってしまうからだ。こうなると、このぬけがらのような人間の生死は、同じ人間だという意識を持たずに、軽い気持ちで決められるようになる。運が良くても、せいぜい、役に立つかどうかで生かしてもらえるだけだ。こう考えてくると「抹殺収容所」という言葉の二重の意味がはっきりするだろうし、地獄の底にいる、という言葉で何を言いたいか、分かることだろう。
Häftling。私は自分が囚人(ヘフトリング)であることを学んだ。私の名前は174517である。私たちは命名を受けた。これからは生きている限り、左腕に入れ墨を持ち続けるのだ。”
(『これが人間かーアウシュヴィッツは終わらない』より抜粋)
※実は、アウシュヴィッツで写真を撮るのが心苦しくて、なかなか撮れなかった。それに中谷さんの説明を追うのに必死だった。一緒に中谷さんのガイドに参加していた方の多くは、ほとんど全ての写真を撮っていて、むしろそんなに撮ってどうするのだろうと思う程だったのだけど(これは日本人の癖なのかもしれない)、今になるとblogのために撮っておけばよかったと思う。廊下の写真も、遺影であるため心苦しくて無理だった。なのでこの先も、必要な場合は、説明を補うためになるべく著作権フリーのものをネットで見つけて、出典元を明記の上に使わせてもらいます。それ以外は、なるべく自分が撮った写真を使います。

2019/02/14

⑩絶滅させるための工場(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編3

“歴史を記憶しない者は、再び同じ味を味わわざるをえない” ジョージ・サンタヤナ
(“The one who does not remember history is bound to live through it again” George Santayana
4号館展示室の入り口に掲げられた言葉)
アウシュヴィッツ、強制収容所、絶滅収容所、死の収容所、死の工場、ジェノサイド、ホロコースト、ショア…
色んな呼ばれ方がある。
ホロコーストとは、元来、ギリシャ語が語源で、ユダヤ教の祭禮で使う(動物などの)丸焼きの生贄のこと。
ある程度の大きさがある強制収容所の分布図・1944年
(photo by United States Holocaust Memorial Museum)
1933年から1945年にかけて、ナチスがヨーロッパに作った強制収容所は、(中継所であった通過収容所なども合わせると)4万箇所以上にも及ぶ。
その中で、主要な強制収容所は約30箇所以上、その内の10箇所が絶滅収容所といわれている。
絶滅収容所と強制収容所の違いは、目的が”絶やし滅ぼすこと”かそれ以外かということである。
“家族や親族ごとまとめて抹殺するために利用した場所。”(中谷剛『アウシュヴィッツ博物館案内』より)
そして、その10ある絶滅収容所の内の6つがポーランドにあり、その中の1つが1940年から稼働し始めたアウシュヴィッツである。
アウシュヴィッツ以外の強制収容所でも収容者の日常はほとんど変わらず、過酷な強制労働や理不尽な暴力に晒されていた。
また場所によっては、アウシュヴィッツよりも過酷な環境(不衛生と食料不足)で、餓死と疫病死が蔓延していた収容所もあったという。
アウシュヴィッツが有名なのは、最大規模の絶滅収容所であったことと、基幹収容所として傘下の収容所を管理する機関であったこと、
そしてなによりも、他と比べて死者数が断トツに多いことだと思う。
アウシュヴィッツに移送されてきた人は少なく見積もっても130万人はいたと推定され、奇跡的に生き残った人はその10%にすぎない。
一日に多くて7000人が殺されていたこともあったという。
この数字だけを見てもあまりピンとこないし、すごい多いなぁ、ひどいなぁ…と思ってそれで終わりになる。学校の資料集と同じだ。
知識として知っていること(今はネットでもすぐ調べられる)と、場所から知ることとは、情報の入り方がだいぶ違う気がする。
それに、私も行く前はほとんど知識がなかった。知っているようでなにも知らなかった、授業で習う長い歴史のほんの通過点でしかない感覚でいた。
虐殺という行為が、大小に関わらず歴史的に見ても数十年、いや数年に一度くらいには、世界のどこかで起きている。
近年に入り有名なものだと、ナチス、スターリン、文革、ルワンダ、クメールルージュ、ボスニア、スーダン…など、現在だと、ボコハラム、アルジャバブ、タリバン、ヒズボラ、シリア、イエメン…など。
今なお、それは続いている。
もちろん日本を含むアジアでも虐殺の歴史は沢山ある。
虐殺の主な理由や原因のほとんどが、
宗教異端、民族浄化、選民思想などの蔑視やひがみや排他思想だと思う。
そして、虐殺に加担する側も虐殺をされる側も、大概が普通の人で、家族がいて、恋人がいて、友達がいて、暖かさを知っていて、悲しさを知っていて、そして”正しさ”を愛している…
サイコパスでもソシオパスでもない、今あなたへ微笑みかける隣にいるその人となんら変わりのない人間だったりする。
それがわかりやすい“悪人”であったり、ないしは”善人”であったならば、もしかしたら、世界はもっと平和だったかもしれないとさえ思う。
しかし、”正しさ”とは、一体なんだろうか…
文化が生まれてから、我々を支配するものとして、属している時代や宗教、社会、政権、組織により180度変わってしまう”正しさ”と同様に、
有史以前からある自分以外のモノとの関係性から生まれる、強弱や優劣からなる他者との”比較”は、動物社会でも人間社会では、至極当然のように行われている。
社会や地域が変われば多少の差異はあれど、現代において権力、容姿、財力、知識、才能…比べる要素はいくらでもある。
隣の家は金持ちだとか、お兄ちゃんは頭が良いとか、あそこの奥さんは美人だとか…
あいつが金持ちなのは、なんかしているからじゃないか。
俺たちが苦しいのは、あいつらのせいじゃないか。
いや、そうに違いない!
あいつは、もしかして、ユダヤ人だからじゃないか?
……あれは、ユダヤ人だ!
と、いうように、
または、社会のはみ出し者だとか、治安が悪くなるとか、放浪者やよそ者だと蔑まれたロマ人(ジプシー)も率先して通報された
そんな感じで捕まり、収容所へ連行された人も数知れずだそうだ。
しかし、この言いがかりのようなものや、ヘイトスピーチみたいなもの、小さな陰口や仲間はずれでさえ、日常でよく見聞きするもので、これの延長線上に、ガス室があり、そして、当時の人もまた、今の人と同じように、罪悪感すらなく、日常の一部のようにそうしていた。
虐殺の加担者である意識などさらさらなく。
ならば、奈落が延長線上にあると明確に知っていたら、辞めただろうか…
たぶん、変わらないだろうな…と思ってしまう。
私も、昔から色んな大人から聞くヨーロッパ旅行の話の中に、”ジプシー”という単語をしばしば聞いた。
電車の中で集団のジプシーに囲まれてひったくりに遭ったとか、ジプシーの子供たちに盗まれたとか、ジプシーの物乞いにぼったくられたとか…ジプシーがいるから治安が悪い、ジプシーには気をつけろ…と。
誰が初めに言い始めたのだろうか…今から思えば、そもそも東洋人にジプシーとそれ以外を見分ける目などあるのだろうか。
そして、今は、それが移民やムスリムにとって変わろうとしている。
日本にも、戦争の負の遺産をアジアを含め沢山の国に加害者として残し、また同じように、日本にも傷として残された遺産を持っている。
歴史認識は、どの国でも難しく、国内でも意見が分かれているのに、国外なら尚更だと思う。
悪や正義がないからこそ、落としどころがなく戦後74年をもうすぐ迎えようとする現在でさえ、まだ国際問題として浮上し続けている。
アウシュヴィッツには行けたのに、日本が関わっている負の遺産を見に行く勇気がなんとなくないのもまた、私の深層心理の中の差別なんだろうなと思う。
行く前は、遠いヨーロッパの国で起きた、自分たちとは違う国の人たちの悲惨な出来事だという意識がどこかにあった。直接関係がなかったとか、当事者ではなかったというところで少し安堵していたのかもしれない。
しかし、大戦中の日本は日独伊三国同盟(枢軸条約)を結んでいる。ナチスドイツとは同盟国になる。日本にヒトラーユーゲント(ナチス青年団)が、ドイツに日本の青少年が親睦のために訪れて大歓迎しているし、(以前訪れて衝撃を受けたのが、)白虎隊で有名な飯盛山にファシスト党ムッソリーニから送られた石碑まで存在している。
杉原千畝や樋口季一郎など、ユダヤ人を助けた逸話を残す日本人もいるが、それは、ドイツ人でもいる、有名なのはオスカー・シンドラーなど。
それ以外に個人でも助けた人は、ドイツ第三帝国の同盟国であれ、衛星国であれ沢山いる。
ドイツ占領下のポーランドでは、ユダヤ人を助けたとわかれば、一家諸共殺されたという。それでも助けた人たちがいる。
関係のないことなんて一つもないのだと思う。
収容者(囚人)が脱走しないように、収容所は致死レベルの高圧電流が流れている有刺鉄線が2重になっている。手前の茶色く錆びた看板には、ドイツ語で”vorsicht! Hochspannung Lebensgefahr”(注意!致死レベルの高圧電流)と書いてある。
また四方にある監視塔から銃を持った監視兵が24時間体制で見張っていた。高圧電流の有刺鉄線の前の看板には、英語で”halt!”と、"stoj!"はポーランド語(になるのかな?)でドクロマークとともに”止まれ!”と警告している。たぶん、高圧電流の前に、止まらないと撃ち殺すという意味だろう。意思は消され、自ら死ぬことさえ許されなかった。

2019/02/11

⑨人間とは、(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編2

アウシュヴィッツに行くと決めてから、頭の何処かに常に、それがあった。
時間があくと、とりとめもなく延々と考えてしまっていた。
人間とは、元来、残酷なものなのか。
いや、そもそも残酷という概念は、社会の法や秩序が作り出したものであって、性善説みたいな定義は果たして成り立つのだろうか。
ゆえに、悪というもの自体、あやふやで、主観的なものではなかったか。
などと、もやもやと足りない頭で考えていた。
行ってから思うと、見当違いなことを考えていたなと思う。
初夏のアウシュヴィッツは、道の左右に整然と並んだ赤茶の煉瓦造りの建物と、新緑のポプラ並木と綺麗に刈り込まれた芝生のある場所だった。
季節のせいもあるが、シンメトリーな景色に、不覚にもなんだか綺麗だなぁと感じてしまうぐらいだった。
ここで何百万人と働かされ、何百万人と殺され、何百万人の命と感情と想いが無関心に刈り取られ灰となり打ち捨てられたのか。
そんなことが感じられないくらい、
静かで穏やかな場所だった。
日本だと、悲惨な現場などには、霊などがいて、怨念や祟りがあるんじゃないかとか、よくいわれるが、
ここほどの悲惨な過去を持つ場所など他にあるのだろうか。
悲惨さなど比べるべきものではないが、そんな考えがバカらしく思えてくる。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館は、博物館という名だが、ほぼ当時のそのままを維持する(復元展示ではなく修理修繕をしながら保存する) 様にしている。
すぐぬかるむ水はけの悪いデコボコの歩きづらい赤土も、強制労働で継ぎ足され作られた煉瓦造りの建物も、ソ連軍の侵攻にナチスが慌てて証拠隠滅のために破壊したガス室などの崩れた跡も…
車椅子の方が1人、見学しにきているのを見かけた。
敷地内の外の道を進むだけでも大変だろうし、ましてや手すりやスロープもなく、全てが石の階段を上らないと入れない建物に、ヘルパーガイドさんが居たとしても限られた場所にしか入ることはできないだろう。
健常者という言葉が、差別的であるとは思うが、アウシュヴィッツにおいて、この”健常者”が命の選別で、生かされる側の基準になった気がする。
そこに、子供、老人、女性、病人、怪我人、働けなさそうな人、障碍者などは、含まれない。
つまり、そもそもこの人たちが使う前提ではない造りの建物になっているということでもある。
過去の差別や迫害への戒めとしての博物館であるが、当時のそのままを展示するという形にしていることで、バリアフリーではないという矛盾を引き起こしてもいた。
私が見学に行った日の前日に、ちょうど、各国から物議を醸していたポーランドの極右的な法案(2018年2月に可決。詳しくは→ https://www.bbc.com/japanese/42901060)が、廃案になった。
その法案は、”ナチス・ドイツがポーランド領内に作った強制収容所を「ポーランドの」と呼ぶことも禁止している。違反行為には罰金刑もしくは最長3年の禁錮刑が科せられる。(上記のBBCの記事より)”というもの。
近年、東欧での極右化がいちじるしく、ポーランドもそれに追随している。
中谷さんが、昨日までだったら、今みたいな言い方をしたら、捕まっていましたね、と苦笑いする場面もあった。

2019/02/04

ローランドさん、すみません。


打ち合わせに神宮前へいく。
近道になるので小学生ぶりに竹下通りを歩いたのだが、20年以上前とほぼ変わらない雑然感と雰囲気。
20年以上前はタレントショップが多かったイメージがあるが、今も変わらない気が…

変わったなぁと感じたのは、海外からの観光客がたくさんいたのと、なぜか黒人のキャッチがたくさんいて、何を売っているのかかなり気になったが、
とりあえずトイレに行きたくて、竹下通りで探すが、
もう何処を入ったら普通のトイレにたどり着けるかまったくわからずに、
仕方なくラフォーレまで行って入る。。

私、以前もラフォーレでトイレに入ったな…というか、ラフォーレにトイレ以外で入ったことないな…と、少し悲しい気持ちになる。 

ちなみに、打ち合わせ場所をgoogle mapで検索したら、あさっての方向表記で、道に迷い、
細い脇道をウロついて、こりゃダメだと思って
道でタバコ休憩しながら談笑していたガクトっぽい人とガタイのいい少しやんちゃそうな強面の3人の男性がいたので、近くで働いてそうだなと、道聞いたら、
やはりまったく違うところに来ていて、すごく親切に徒歩数分先のその場所まで連れて行ってくれた。 

道案内の道中、お仕事の話をしてくれたのだが、
テレビや流行りのメディアとかをまったく見てないので、ユーチューバー?とか、メルTV?とかローランド?とかの話をされたけど、ちんぷんかんぷんで、かろうじて話を合わせたが…なんか、そうゆう関係のショップを来月からするらしい。

ローランドと聞いて、なぜか芳香剤が頭をよぎったが、「へー、あーはいはい。」と相槌を打つ中で、話の流れからホストだということに気づき、変なこと言わなくてよかったと胸をなでおろす。

私がトンチンカンな質問していたので、こいつ何も知らないなと思ったらしく、途中から呆れ気味で説明してくれたが、それでも理解できなくて、最後にはこいつダメだな…と思われた気配。すみません…

メルTVっていうのもなんだかちっともわからず、帰りに検索してみたが、やはりよくわからなかった。youtube番組ってことなのかな…ちなみに、メルではなく”Mel”だった。

しかも、単語が理解できたところで、業務内容はやはり理解できなかったが、なんかネットと実際の店舗を使ったお仕事らしい。
道案内のお礼に宣伝でもしようとしたが、なんもわからなくて役にも立てないようです。
すみません、ありがとうございました。

やはり、コミュニケーションのためにも、少しは流行りものを知るべきなのかもしれない。

かわいいをアップデートできるんですね。

2019/02/03

ソーシャルネットワーキングサービスの使い方



ずっと以前から登録していたのに、全く投稿をしていなかったInstagramを、
仕事のためだと姉にほだされ、今更投稿をし始めることにした。

全く使い方が分からずに、フォローは、し返すべきなのかさえよく分からないで、とりあえず、以前と変わらず4人しかフォローしていないんだけど…すみません。

実は、私はSNS系をたくさん登録している
古い順からだと
①mixi (10年くらい開けてないが、もしかしたらブログがながれるようにしていたのかな…設定すら忘れた)

②Twitter (英語版の時から登録していたが、未使用。最近はnoteをシェアするのみに使用。他人のは全く見ない。)

③Blogger (SNSに入るのかな?メインでずっと飽きずにブログをやっている。趣味に近い。)

④Facebook (blogをシェアするのみに使用。他人のをほぼ見ない。)

⑤Tumbler (唯一他人のをよく見ている。1番好きだが使いこなせなくて投稿が中途半端で諦め、ほぼ見る専)

⑥Instagram (はじめは好みの海外モデルを1人だけずっとフォローして見ていたが、それ以外の使い方が分からず放置していた。)

⑦google+ (なんか知らない内に登録していた。未使用。なんか今日googleからサービス停止のお知らせが届いた。)

⑧Note (近年始めた。使いやすくて文字中心だしblogの下書き用にも使用。投稿するのが楽しい。まだ他人のを見る余裕が無い。)


基本的に、友達が少なく興味も持たれてないので、どのコンテンツも見ている人が多くて5人いるかいないかだと思う。

全くソーシャライズもネットワーキングもしていないし、サービスの恩恵も受けていないので、すでにSNSとよんでいいのかよく分からない状態なのだけど。

で、慣れないInstagramを3つ投稿しただけで、かなりの時間がかかり、おじぃちゃんかよ…と自分で思う。

しかし、フッと思ったが、
この誰に向けてやっているかよくわからないサービス(SNS)に時間を取られて、残り少ない私の人生がSNSに費やす時間で終わる気がして、恐怖を覚えたんだけど…
みなさん、すごいな…

ちなみに、Instagramを今まで投稿しなかった大きな理由は、携帯写真で投稿するという手軽さが非常に嫌だったのだけど、google photoからもPCからも投稿できることに一昨日気づいたので試してみることにしました。

ま、Instagramは、もう少しやって様子を見てみます。
もし使い方が間違っていたら、優しく教えてください。

2019/02/02

恵埜画廊(山形市)でのグループ展に参加します。

どうぞよろしくお願いいたします。



■2019年2月3日(日)~17日(日)

【  2月5日(火) 12日(火) 13日(水) 最終日  】PM5:30まで


待ちわびた春の兆しが見える頃、お雛様の節句が巡って参りました。健やかな子の成長を願う「お雛様」を表わした絵画や工芸は、暮らしを彩り、節目を祝う飾りとして大切に選ばれてきました。
今回は、春日大社ゆかりの奈良一刀彫の中から厳選し、面立ちや意匠、共に質の高い作家をご紹介いたします。
また、子供の守り神として飾られる『犬筥』や、京都有職造花ゆかりの薬玉(くすだま)に着想した『花掛飾り』、縁起物のブローチ…etc、節句を楽しむ飾りが並びます。この機会にどうぞご覧くださいませ。
(恵埜画廊のHPより)


恵埜画廊
〒990-0042
山形県山形市七日町2-1-38 
◆電話:023-623-3140
◆FAX:023-623-3140
◆E-mail:info@yoshino-garo.jp
◆営業時間:10:30~18:30

2019/02/01

ポーランド旅行記まとめ※随時更新


ポーランド旅行記の続きを書いていくにあたり、バックナンバーのまとめを作っておきます。

1◆準備

https://fukuchiayako.blogspot.com/2018/12/20186.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2018/12/frawro-20186.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2018/12/20186_8.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2018/12/20186_20.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2018/12/20186_16.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2018/12/20186_11.html


4◆Kraków 

 ⑦旅の目的 (2018/6月)

https://fukuchiayako.blogspot.com/2018/12/20186_56.html


5◆Auschwitz-Birkenau編(Kraków 

 ⑧オシフィエンチム(2018/6月)Auschwitz-Birkenau編1

https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/02/20186.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/02/20186-auschwitz-birkenau2.html

https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/02/20186-auschwitz-birkenau3.html

 ⑪遺されたカタチ(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編4
https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/02/20186-auschwitz-birkenau4.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/03/20186-auschwitz-birkenau5.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/03/20186-auschwitz-birkenau6.html

 ⓮歴史修正主義(余談) Auschwitz-Birkenau編7

https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/03/auschwitz-birkenau7.html

 ⑮クレマトリウム Auschwitz-Birkenau編8

https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/06/auschwitz-birkenau8.html


 ⑯墓石のない墓地(2018/6月)Auschwitz-Birkenau編9


https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/06/20186auschwitz-birkenau9.html


 ⑰アンネのいた場所(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編10


https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/06/20186-auschwitz-birkenau10.html


 ⑱人を残忍にするシステム(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編11


https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/06/20186-auschwitz-birkenau11.html


 ⑲顔のない怪物(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編12


https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/06/20186-auschwitz-birkenau12.html


 ⑳まとめ Auschwitz-Birkenau編13


https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/06/auschwitz-birkenau13.html

 ㉑参考資料の感想(ドキュメンタリー編)Auschwitz-Birkenau編14


https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/07/auschwitz-birkenau14.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/12/jewish-culture-festival-20186.html
https://fukuchiayako.blogspot.com/2019/12/20186.html

⑧オシフィエンチム(2018/6月)Auschwitz-Birkenau編1

“オシフィエンチム”というのが、アウシュヴィッツがある土地の本来の地名である。
バスのチケットを買う時に、窓口で”オシフィエンチム行きのチケットください。”と言わなきゃいけないのに、
オシフィエンチムが、非常に言いにくくて、列に並びながら何度か口の中でオシフィエンチムとつぶやいてから、満を持して、窓口へ。
お姉さんと目が合ったとたん…やはり噛んでしまった…
ドイツ人にも、”オシフィエンチム”は言いにくかったらしい、だから”アウシュヴィッツ”と付けたそうだ。
ドイツ語は、割と日本人には発音しやすい気がする。
義務教育を受けてきて、アウシュヴィッツの名前を聞いたことがない人はあまりいないと思う。
忘れていたり、具体的にはわからない人はいるのかもしれないが。
そういう自分だって、知っていることなど通り一遍の授業で習った程度だと思う。
残念ながら、我々の義務教育では、近現代史は、3学期あたりであっという間に終わる。
しかも、ひたすら年号と国名だけをテストのために暗記させられるため、何一つ中身が入ってこない。
そんな義務教育を呑気な頭で受けたままの知識で、まずは、行ってみることにした。
知識がない分、怖いけど、ちゃんと見てこようと思った。
大きな駐車場には、何台も観光バスや車が止まっていて、様々な国からきた人々が、様々な思いのままこの場所に集まってきていた。
時間になると、指定された待ち合わせ場所に20人ほどの20代から50代くらいの日本人が集まってきた、みんな個人旅行だった。
日に焼けて誠実そうなガイドの中谷さんがテキパキと慣れた様子で先導してくれる。
アウシュヴィッツを1時間半くらい、外に出て、希望者だけ30分後から今度は第二収容所のビルケナウ(シャトルバスが出ている)へ、そこでまた1時間半くらい案内してくれた。
中谷さんにガイドをお願いして本当に良かったと思う。
アウシュヴィッツのことはもちろんだが、在り方、考え方、政治的なことなど、多岐にわたり話してくれて、どんな質問も誠実にきちんと答えてくれる。
誰が悪いとか、可哀想だとか、どうすれば良かったかとか、そういうような思想や意見や感情的なことは言わず、ただ坦々とこの場所で起きた事実だけを丁寧に話してくれた。
そして、この場所に訪れた人が、自分の心で感じ、考え、それぞれの胸にそれぞれの答え託すように話してくれた。
中谷さんが、
ガイドする相手の国が違うと、センシティブな部分もあり話せないことや、安易に触れられないこと(特に政治的なことなど)があるから、話す内容も変わってくる場合があるとも言っていた。
その点、日本人は、そういう制約が極めて少ないのではないだろうか。
行った率直な感想を言うと、
行く前まで、怖くて仕方なかったので、
(場所に対して)ガチガチに緊張していて、気が高ぶってしまい、怖さや悲しさのようなところまでおりて行かずに、なんだか感情だけがひどく上の空だった。
中谷さんのガイドのおかげで感情の波が来なかったかもしれないし、
もしかしたら、恐怖から無意識に心にガードしたのかもしれない。どちらにしても緊張と変な興奮で、首と肩が力みすぎて、亀みたいになっていた。
そして、
それは感情の筋肉痛のように、次の日からジワジワと来だした。

白衣の天使、求ム。

帰りの電車の中で、喉に少し違和感を感じて、家に帰ると2.3度空咳が出た。
翌日、寝起きに喉の違和感はまだあり、また咳が少し出て、鼻水も出たが、熱を測るが平熱。
去年の約1か月近く続いた咳風邪の末に、与えられた頓服薬のトラウマが頭をよぎり、初期段階に病院へ行くことにする。
しかしその日は病院が休診日だったので、その翌日に、時間に余裕があるし、朝から近所の内科に行くことにした。
診察した先生に、平熱であるが、喉を見た感じがインフルエンザっぽいけど、5分でわかる粘膜をとるインフルエンザの検査をするか聞かれて、
します!と即答。
しかし…
粘膜とるって、超長い綿棒みたいなのを右の鼻の穴から、喉あたりまで突っ込まれてクリクリされる。
普通に異物感ハンパなくて痛いので、反射的に鼻水と涙が溢れてくる。
これ、副鼻腔炎の時の治療の痛さに近い…
綿棒を抜かれて、溢れた涙はそのままで、とりあえず、鼻水をかみたくて、ティッシュで、ズピーッと鼻をかんで、丸めて、待合室のゴミ箱に捨てようと握りしめていたら、
先生が、捨てますよ、と何気なく手を出す…
え…こんな見ず知らずの他人の鼻水で湿ったティッシュを、素手で…
と、一瞬躊躇したが、渡す瞬間に生ぬるく湿ったティッシュと手の間に何かが芽生える感覚が…
なるほど、こういう瞬間に、看護婦さんなどに、この人に俺の下の世話を任せられると確信(錯覚?)してしまうんだなと、白衣の天使を好む男性に共感したのだが、
その直後に、あ、インフルエンザでしたね、と言われ、芽生えた何かは消し飛んだ。
新薬ゾフルーザを入れた3種の薬を丁寧に説明してもらい、その中からタミフルを選んで処方してもらう。
はじめてのインフルエンザにドキドキしながら、家に帰ったが、
ありがたいことに38度以上にならず、微熱は翌朝に平熱(37℃)に下がる。
熱が上がらないインフルエンザとは、花粉症に近いなと思いながら、ネットで検索すると、どうやら老人(免疫力が低い)は熱が上がらないらしい…。そうか、、、、そういうことか。この5日間を利用して、今後の自分の下の世話をまず考えるか。