2019/06/29

⑲顔のない怪物(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編12


もし、ヨーロッパ人が、ドイツ人が、ナチ労働者党が、いや、アドルフ・ヒトラーが全て悪いのだと思えたら、心穏やかにいれたのだろう。
学生の頃の愚かな私は、ホロコーストに関しては、ヒトラーが諸悪の根源だと思っていた。
大人になって、人間の歴史は、神話のように、一人の人間だけで全てが動くのではないということを知った。
(※Auschwitz Memorial and Museum/instagramより。
アウシュヴィッツで一番最初に見た展示物で、ヨーロッパ中のゲットーや収容所などからアウシュヴィッツに送られてきたことを表す地図。)
オシフィエンチムからクラクフへ帰るバスの中、変に興奮していた。
中谷さんのガイドで一緒だった人と車中で、あえて関係のない話をずっとしていた気がする。
ただただ自分の中で、全然怖くなかったと必死に言い訳をして、焦って混乱していた。
これをした人もされた人も同じ人間だと考えないようにしていた。
または、遠い昔の野蛮な時代(そんな時代があるかわからないが)の話だと思いたかった。
自分とは無関係だと思わなくては怖くて仕方なかったし、理解してしまうことで大きな原罪を背負っている事実から逃れられなくなると思った。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館には、さぞやヒトラーについての記述や写真があるのかと思っていたら、全くなかった。
11号棟にあったSS(親衛隊)の部屋が当時のままで、廊下からドアの窓越しに覗けるようになっているのだが、その部屋の壁に唯一ヒトラーの着帽した横顔の写真が一枚だけシンプルな額に入って掛けてある。
タイトルも説明もなく、言われなければ全く気づかない部屋のインテリアの一部だった。ただ、それだけだった。
(※Auschwitz Memorial and Museum/instagramより。正面に見える額入り写真がそれになる。)
この恐ろしい工場を作った怪物の正体は、”ヒトラーでした”とは終わらせてはくれなかった。
怪物は、社会であり、風潮であり、民衆だと言われているようだった。
怪物には顔がなかった。
そして、誰の顔にでも取って代わるものだった。
アウシュヴィッツで、残酷だ!ひどい!ナチスが許せない!と憤慨していれば、ずっと穏やかな気分でいれたかもしれない。
もしここで涙の一つでも流せたら、こんな恐怖に陥らなかったのかもしれない。
怪物になるには、
人種も生まれも環境も関係なくて、
ましてや、知識も財力も容姿も関係なかった。誰でもなくて、誰にでもなりうる。
誰でもが同じ轍を踏みうるし、もしかしたら今も気づかずに何かしているのではないか…、または、起きていていることを見ようとしていないこと、何の疑問も感じないことがすでに、怪物になりかけているんじゃないか…、と足元から恐怖が来る。
(※Auschwitz Memorial and Museum/instagramより。ビルケナウ。)
中谷さんも、こんなことを言っていた、
戦後、当時のドイツ国民の大半が、まさかナチ労働者党がそんな政党だとは思わなかったとか、自分は支持していた訳ではないとか言う人がほとんどだったらしい。
たしかに、ナチ労働者党は、初めは極少数政党だった。
それが、世界恐慌や第一次大戦の戦後処理などの社会風潮を利用し、また強硬な法案採決や国民の猜疑心や攻撃性を煽るようにして拡大していった。
それでもナチ党の得票率はピークでも37%ほどの少数内閣だった。しかし古参の右派と連立を組むことで、そして、国外への積極的な軍事侵攻と同時に、国内のインフラ整備や環境対策、圧倒的な景気回復、雇用拡大などにより、支持率は90%台までいったという。
この90%という数値をみて、ドイツ中が熱狂し支持していたと捉えるべきか、大半は、風潮に流されていただけのサイレントマジョリティだったのか、よくわからない。
自分で考えた末に、選んだ政権や体制、主張であるならば、たとえそれが間違っていても、間違えたと認識さえできれば、修正も反省もすることができる。
しかし風潮に流されている大衆が、選んだ意識もなく流された先がたまたま”そこ”であったり、なんとなく選ぶことをしないサイレントマジョリティであったなら、
それは、間違った選択肢を選んだことを認めずに、自分は知らなかったと居直り、挙句、他人のせいにして、相手を怒り、反省も修正もしないことが多いのかもしれない。
人が常に”正しい”選択だけをするとは、思わない。迷うし、間違うものだと思う、ただ、その選択に自分の意思や思考がなければ、間違いを正すことすらできない。
私は、自分が怪物になるかもしれないと怯えているが、怯え続けている内は、完全なる怪物になる前に気付けるのではないかと願っている。
もう、数年前になるが、
昨今、漫画が出て爆発的に流行っていた吉田源一郎の”君たちはどう生きるか”が全く流行ってない頃にこの本を読むきっかけとなった梨木香歩の”僕は、そして僕たちはどう生きるか”の冒頭に今でも私の戒めとしてたまに思い出す文章がある
“群れが大きく激しく動くその一瞬前にも自分を保っているために”(梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』冒頭より抜粋 )
自分を恐怖や不安から、少しでも解放するために、
考えることを他者から奪われないようにすることと、決して考えることをやめないということを、努力していかなければならないと思った。
ヒトラーのような人間は、この先も必ず出てくると思う。現に今までもいただろう。
それでもヒトラーのような強く鋭利でギラギラと見える物に流されてしまったり、思考を奪われてしまわないようにしなければならないと思った。
往々にして人は迷いやすく、歴史は繰り返されるが、過去から学び、人類の進化や叡智をも信じて、悲観せずに前を向いて歩かなければいけないんだろうな…
(※Auschwitz Memorial and Museum/instagramより)

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