2019/06/12

⑰アンネのいた場所(2018/6月) Auschwitz-Birkenau編10

数年前に、オランダ・アムステルダムでアンネの隠れ家を見学しようと思い、午前中にも関わらず、すでにかなり伸びた列に並んだことがあった。
並びながら、でも私は、アンネの日記を読んでいないんだよな…と後ろめたい気持ちになり、
そんな気持ちを察したのか、通り雨が降り始め、私は列から離れて別の場所へと向かってしまった。
アムステルダムを離れる前に、運河から少し入ったところで偶然出くわしたアンネの小さな像を見て、読んだらまた来ようと思った。
ビルケナウを案内してもらっていた時に、ここにアンネはいました、と、説明を受ける。
貧乏な辺境の農業倉庫の様な、煉瓦造りの簡素な平屋の建物に案内される。
中に入ると、外の明るさから急に、辺りが薄暗くなりヒンヤリとまた少しジメッとした感じがして、まるで地下に来た気分になる。
煉瓦の壁で細かく仕切られた圧迫感のあるその内部を見回して、外の光があまり入らない訳を知る。
そこは、ただの二段の棚がずらりと並ぶ、収容者の寝床だった。わずかな藁が布団で、一段に2~8人寝かされたらしい。
ポーランドは、冬が厳しく、特にこの地域は氷点下20度くらいにはなる。
となりの建物の窓を覗くと、たくさんの穴が20cmおきくらいに規則正しくあいた細長い板が、縦に長く3列あった。ちょうど家畜が個別で食べれる餌入れのような感じだったのだが、トイレだと説明された。1日2回しか使えなかったという。
(※ これは、木造バラックの方のトイレの写真 /en.Wikipedia )
終戦の約半年前、隠れ家から捕まり連行されてきたフランク一家の内、アンネと姉マルゴー、母親エーディトは、ここにいた。(父親オットーは、アウシュヴィッツの方へ)
その後、ソ連軍のアウシュヴィッツへの侵攻を恐れたナチが、アンネとマルゴーをドイツ国内のベルゲンベルゼン収容所に移送、そこで2人は、(アウシュヴィッツ以上の劣悪な環境により)不衛生と慢性の栄養失調のため収容所内で蔓延していたチフスにかかり、マルゴー、すぐ後を追う様にアンネ、が息をひきとる。ベルゲンベルゼン収容所がイギリス軍により解放されるわずか約1ヶ月前のことである。
残された母親は、娘が同じ場所にいたことだけが支えだったように、アンネたちが移送された後すぐに、ここで衰弱死する。(父親のオットーは、解放時アウシュヴィッツでソ連軍に保護される。)
彼女たちが例外ではなく、何百万人の内のガス室へ送られずにわずかばかりに地獄の中で延命した何万人の内の1人の話で、最期を克明に書くにはいたたまれないので、行方だけかいつまんで書いた。
戦争末期になると、ひどい労働力不足のため、ドイツ政府が囚人の勝手きままなな殺戮を一時的に中止し、抹殺すべき囚人の平均寿命を延長するように決定したこともあり、それまでの”政治犯”や”労働力としての男”、”実験材料”以外の即時抹殺という方針を少し緩めている。
女性であることもそうだが、アンネは当時14歳だった(13歳前後が生死の狭間になる)のだが、年の割に身長が高かったため、最初の死の選別で生かされる側になる。(この時、アウシュヴィッツに着いた1019人の内549人がガス室へと送られた。以前だとこの死の選別で、約25%しか生かされなかった…)
人間が生まれてくることに、大した理由も意味もないのだと思う。不幸も幸運もスロットのように誰の上にもふりかかるし、それが何かの啓示や意味のある特別なことでもないと思う。
そんなことはわかっているけれど、好奇心旺盛でクリクリと目が大きくておしゃべりで少し背伸びな14歳の女の子の時間を、彼女だけではなく、ただ特定の人種や思想だとかいう理由で刈り取られてしまうたくさんの命が、それだけのために生まれてきたのではないと思いたい。
そのむごさは、約75年前の話ではなく、ロヒンギャや、シリア、アフガニスタン、南スーダン、イエメンなどで今なお継続して起きているというのに…消える命を知らず生きるにはむごすぎるし、知りながら手を伸ばせないのも辛すぎる。
昔、小説で知った言葉だが、
テレンティウス(紀元前古代ローマの劇作家)の言葉を、ローマ帝国時代の哲学者で政治家のセネカが引用した言葉が心に残っている。
 ― テレンティウスという古代羅馬の劇作家の作品に出てくる言葉なのだ。セネカがこれを引用してこう言っている。「我々は、自然の命ずる声に従って、助けの必要な者に手を差し出そうではないか。この一句を常に心に刻み、声に出そうではないか。『私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない』と」。(梨木香歩”村田エフェンディ滞土録”より)
とりあえず、今度こそは帰ってきて、アンネの日記を読むことにした。
※写真は、アンネフランクハウスより。私が好きなアンネ5歳のポートレート。
1934年9/11撮影。
撮影前後の出来事
1933年1/30、ヒトラー首相就任。
同年、ナチ党がフランクフルト市議選でも圧勝し、ユダヤ排斥の風潮が高まってくる。
夏に、父オットーが家族の安全のため、フランクフルトからアムステルダムに拠点を移す準備で単身赴任。
翌年の1934年(この写真の年)2月にアンネもアムスへ引っ越す。
1940年5/10、ドイツ軍がオランダ侵攻
1942年7/5、隠れ家生活に入る
(第二次世界大戦 1939年9/1〜1945年9/2)

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