2023/10/08

すぐ書いておかないと、その熱は跡形もなくなる

 人が何かに取り憑かれた時の熱量は爆発的なものだが、私の場合は冷めやすいので爆発後は数年ですぐにその内容すら忘れてしまう。

一夜漬けの勉強と一緒で、あまり記憶に定着しないで終わることが多い。

それでも、“推し”を持たない私の“推し的な熱量“の発散場所として、突然何かターゲットとなる事象に出会ってしまうと、いてもたってもいられず、無意味に行動的になり研究熱心になって、そのことしか考えられなくなって、色々調べて、それを書かずにはいられなくなることが、多々ある。
書くことは考えをまとめることでも、表現として納得するためでもあるのだが、備忘録にもなる。そしてある程度まとまると満足し、忘却の彼方へ向かう。

近年でいえば、”アウシュヴィッツ“だったかな。まーこのテーマは、いまだにちょこちょこ更新し続けているが…最初の熱量と一過性の知識から比べると、神経症的な心持ちから今は一般常識の範疇にまでにはなったと思う。

時間と材料が集まればその場で色々書いて満足するのだが、それが出来なかったものは、時間と共に熱量が奪われいくものの不完全燃焼を起こした澱となって、再度燃やすこともできずに心に溜まりつづけていく。

藤井光『日本の戦争画』(2022) インスタレーションの一部

そんな澱として、残っているのがあったことに、iPad内の何枚かの写真で思い出した。

去年MOTで見た、藤井光氏による日本の戦争絵画をめぐるインスタレーション作品が面白かったので、
そのあと、別の日にあったアーティストトークにも行ったら、そこで聞いた話が興味深く、好奇心が発火したのだが、なんせ時間と情報が少なすぎて、そのままになっていた。
それが、戦中はゾルゲとも関係があり、戦後は米国に厚遇された”荒木光子“という人である。
松本清張が、彼女を最後のテーマにしていたので、調べていたというが、結局は亡くなってしまい未完の仕事となった。清張先生を思えば私の無念さなど屁のようなものであろうが。いかんせん情報が少なすぎて、今となっては、清張先生が書いてくれていたらと思わずにはいられない。

藤井光『日本の戦争画』(2022) インスタレーションの一部

追記:  もう一つ思い出したが、相撲の土俵についても調べようとしてて、たくさんの文章の断片が保存されていた…苦笑

画像

そんなこんなで、歳と共に、その熱が冷却されるサイクルは少し鈍くはなったものの、感覚を記憶として止めることが難しくなったので、その時に得たものは、書き残さないとダメなのだと思った。
写真は、思い出す手助けにはなるが、蘇る感覚は大雑把なふんわりとしたもので、細部までは思い出すことができない。視覚を極端に頼っているせいで、結局視覚以外の感覚は微細なものとして忘れてしまうのに、手軽に残せる写真は視覚しか補ってくれない。

先日、アーティゾン美術館「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」展に行ってきて、その感覚というものを言葉にして残すということが、いかに面白いことか身に染みた。

この展示は文章も感覚も色々情報量が多い展示であるが、私にはとても面白かった。
「サンサシオン」とはセザンヌが絵画を語る際、「感情に至る前の感覚的な衝動」のような形でしばしば用いた言葉だそう。

“タイトルの『山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン』のサンサシオンとは、「感覚」を表すフランス語で、セザンヌが制作について語る話によく出てくる言葉だという。「感覚に集中して対象と同化して描くというのが古今東西の制作の基本だと思いますが、感覚に集中することは正に生きているということであり、制作は生の全肯定なのです」とする山口は、「制度が我々を取り込むのに巧妙化する時、やむに止まれぬサンサシオンをこそ頼るべきなのでしょう」とサンサシオンへの強い想いを語っている。そうしたサンサシオンに揺さぶりをかけるのが、冒頭のインスタレーション『汝、経験に依りて過つ』だ。ここでは何気ない室内空間にある仕掛けを施すことで、平衡感覚が奪われ、にわかに歩くのも困難になるような体験が得られる。通常の視覚認知機能を問い直すような作品といえる。” https://www.pen-online.jp/article/014322.html pen onlineより

ちなみに上記の引用に出てくる“冒頭のインスタレーション『汝、経験に依りて過つ』”は、“にわかに歩くのも困難になるような体験”どころか、私は部屋に入った途端にぐらりとして、酩酊状態になり、そのまま右の壁際まで倒れるようによろけて、右の壁に押してつけられるようになって足がもつれ、前に進むのがやっと、といった感じになった。
部屋の出口に澄ました顔で立っているスタッフに思わず
「す…すごいですね…こんなに歩きづらくなるなんて…」と乱れた動悸と共に声をかけたほどだった。(微笑されただけだが…)

山口晃『汝、経験に依りて過つ』(2023)  写真は美術手帖より

ジャッキで持ち上げたように、ただ床に傾斜をつけて部屋全体を斜めにしただけの、“坂道になっている部屋”なだけなのだが、視覚情報も斜めになっているので平衡感覚が狂う。
出たところに、山口氏のマンガ解説があって、後遺症でヨロヨロしながらそこにたどり着いて読んだところ、
昔、豊島園のアトラクションにあった『斜めの部屋』を再現したかったらしく、本来は20度くらいの傾斜にするつもりだったらしいが、ここでは天井高の関係で10度にしたとのこと…
20度だったら、私は多分、重力に押し潰された人のように這いつくばって「た…助けて…」と澄まし顔のスタッフに懇願しながら息絶え絶え進むことになっただろう…と空恐ろしくなった。。。
目をつぶると坂道を歩いているだけの感覚になるので、難なく歩けるとのことだが、怖すぎてもう一回チャレンジする気も起きなかった。
ちなみになんか変だなくらいで普通に歩ける人もたくさんいるので、みんなが私ほどにはならないと思うが…

他にも体感型の面白い展示がたくさんあり、
“モスキートルーム”という部屋で自分の眼球の前に球体がある感覚や、“アウトライン アナグアム”という、山水画の世界のジオラマ化によりパノラマ眺望できるインスタレーションもある。
その一つ一つに面白い解説がついているので、「そうだよね。なるほどね。そう考えていたのか…」と、感覚の共有化と詳しい状況説明をじっくり味わえるのも、何とも面白い。

山口晃『アウトライン アナグラム』(2023) 写真は美術館HPより
これも、好きだった。
この景色を見ながら、この世界で生きていきたいと思ってしまった。
脇からペラペラの仙人が出てきて話しかけてきそうな世界観。
この作品は、写真じゃ伝わらないけど。笑
セザンヌ分析の一部 
(写真はTokyo art beatより)
勉強になる。
『馬からやヲ射る』
東京五輪公式アートポスター
これ好きだな。

日本橋についての漫画もあって、近い将来に首都高を地下に潜らせる構想の東京都だが、現在の構造物としての首都高と日本橋の関係の発想もとても面白く、今のままでいいなと思ってしまった。

山口晃『趣都 日本橋編』(2018-19、講談社『月刊モーニング・ツー』より)
つづき
山口晃『日本橋南詰盛況乃圖』(2021)
“日本橋”部分の一部を拡大
現在は、日本橋の上に首都高があるが、
その首都高の上に、江戸の日本橋のように木造の太鼓橋になっている。
これも素敵。
『洛中洛外図屛風』 江戸時代 17世紀
今回の企画展を受けて所蔵展で展示されている。
一部拡大
青木繁『海の幸』重要文化財
この絵はやはりすごい。
教科書で小さい頃からよく見ている絵だが、写真だと、暗くてなんだかよくわかんないけど
実際目の前にすると、見入ってしまう。
アーティゾン美術館所蔵だったんだな、と改めて知る。

最近、日本でも作品の写真を撮れる美術館が増えてきて(海外では割と普通に撮れる)
写真を撮っていいと言われると、慣れていないからなのか、一枚一枚律儀にスマホで写真を撮っていく人が多くてビックリする。しかも、鑑賞していると、それが結構邪魔である。
真ん中の真前で撮りたい上に、若干館内が暗いのでピントが合うまで少し時間がかかったりして、こっちも気を遣って、シャッターを押すまで画面に被らないように避けたりするのだが、次から次へと写真を撮っていくので、全くもって集中が途切れる…そして、あの耳障りなシャッター音。。。
展示がガラガラならいいけど、ものすごい混んでいる中でその調子なので、テート美術館展では辟易した。
気に入った作品、面白い造形とか、後で思考や創造の参考程度に思い出せるように撮ったりするのはわかるけど、(私の写真を撮る基準はそんな感じ。)
そんなに写真を撮ってみんなどうするの?とものすごく疑問に思う。
スマホで全ての写真を撮るくらいなら、図録かポストカード買った方が良くないか…と。。写真撮影した上で、買っているのかもしれないが…。

「デイヴィッド・ホックニー展」MOT
可愛いので、撮ってみた。笑

海外の美術館は、大体が日本のように(芋の子を洗うように)混んでいないのと、絵と絵の間隔に結構ゆとりがある。
日本の場合、狭いからか、アートフェアみたいに間隔が狭く作品が置かれていたりするので、通常でも横の作品が視界に入ってきて、独立して一つの作品を見れなかったりする。
その状態で、撮影大会が始まってしまうと、もう、どうしようもない。

で、そのうち、私の作品を見る集中力が無くなってしまって、写真を撮る人(作品と私という自撮りも多い…笑)を観察するのが楽しくなってきたりもするので、作品より人を見始める。
そして、気づいたのだが、写真を撮る人は、作品を目視で1秒くらいしか見ておらず、あとはスマホの画面越しに見て、写真を撮って次の作品へ移動しているのである。
逆に、写真を撮らない作品(たぶんバエないと思われる作品)の方が、3秒くらいは目視している。
スマホ画面でいいなら、ネットで見ればいいよね…お金もかからないし、ご足労もないし。。。と思うのだが、そういう私も、もう作品より、人にばかり目が行っているが…

デイヴィッド・バチェラー『ブリック・レーンのスペクトラム 2』( 2007)
『私が愛するキングス・クロス駅、私を愛するキングス・クロス駅 8』( 2002-07)
ネオン管やレトロなカラーライトが好きで、そういうアートを見ると無条件で写真を撮ってしまう。
オラファー・エリアソン『星くずの素粒子』(2014)

この作品は、最後の展示物になるのだが、そんなに惹かれる作品ではなかった。が、あまりにみんなが写真を撮っているので、
その人たちの観察をしていたら、私も撮らずにいられなくなってしまった…
同調圧力に弱い。笑

でもこの作品は、写真の方が(空間から切り取られた平面の方が)好きだなと思った。
立体で見ると、色んな要素とか視点の置き場によって見え方が変わるからかな。
よくわからないけど。
これこそが、バエル写真なんだろうな。と思った。

ペー・ホワイト『ぶら下がったかけら』(2004)