2019/01/19

号泣する準備はできていた





制作をしながら江國香織の”号泣する準備はできていた”の朗読を聞いていて、何度か途中で切らないと、胃のあたりがムカムカとして仕方なくなる。
朗読者の読み方かとも考えたが、そもそも江國香織の本は20年前くらいに1、2冊しか読んだことがなく、(どの本か覚えてさえおらず、)それ以降読まなかったのも、苦手だったからではないかと思い出す。
しかし、他人の朗読を聴くのと活字を読むのは別の感覚器官ではなかろうか…
活字は、ちゃんと活字を読んで感想を書くのが作家への礼儀だし、ファンにも申し訳ない気がしてきた。 
なので、読むことにしたのだが、驚いたことに、朗読では2、3行文章が抜けているのではないかと感じる箇所がポツポツでてくる。しかも抜けている気がした文こそ必要な箇所ではないかと感じるのだ。
だが、抜けていたのではなく、聴き流していたようだ。
結局、不可解なイライラのせいで話に入り込めていなかった。
何が苦手なんだろうか…と少し考え、
登場人物に魅力を感じない、この一択なのではないかと思う。
いくつかの恋愛にまつわる出来事を山もオチもなく、宙ぶらりんの情熱と温度の文体で書かれている。
感情の機微を表現しているんだろうが、魅力がない彼らのことを、知りたいとも思わないのに、相槌に困るようなとるに足らない退屈な恋の話を延々と喫茶店で聴いている気分になる。
浮気しているだの、昔の男の話だの言われても、”で、その(つまらない)話はまだ続くの?”っと伝票をむしり取りレジに向かいそうになる。
登場人物が苦手だと、文体までもが苦手なのだと錯覚を起こす。
本来は、むしろ好ましい文体なはずなんだけど…
この錯覚は、人間関係と似ているなぁ…
苦手な小説を書く女性作家が、何人かいる。
昔に1、2冊読んだ後に、食わず嫌いで読んでいないだけなのだが、山本文緒、江國香織、よしもとばなな、などなど
村山由佳や唯川恵は、手にすら取っていない。
あげた名を見て、女性作家の恋愛小説が、そもそも好きではないのかと考えたが、そうでもない。
これはある種の(一定数いる)村上春樹の小説が苦手な男の人に似ている気がした。
これは同族嫌悪なのかもしれない、他人から見た自分はこの魅力のない凡庸な登場人物たちにすごく似ている気がした。
近くにいたら絶対に親しくならないタイプの人間。自分でもう十分に事足りている。
その凡庸さや、共感性のようなものを、江國好きの読者が楽しんでいるのだとしたら、私が小説に求めるものが違うだけなのかな…
直木賞繋がりでいえば、同じ恋慕の描写でも、向田邦子は、やはり好きだと思う。いつまでも読んでいたいほどに、登場人物は魅力的で人間臭く、文体に色気も想いへの誠実さや滑稽さ、苦さもある。
…あぁ、ここまで書いて、わかった。
この小説の登場人物に色気がないのだ。
だから惹かれないのか。
同時期に聴いていた朗読で、森絵都の”風に舞い上がるビニールシート”(直木賞受賞)は良かった。
恋に囚われている人たちを見て、踊り踊らされている姿に羨ましくも疎ましくあるのだが、
歳をとったせいもあって使いまわした油の揚げ物も、泡だてのあまい生クリームも目にしただけで、胸焼けしてしまう。その上、雰囲気や見た目が良くても、好みの味ではないと、そそられもしない。
若い頃は、文句も言わずに何でも食べられたのになぁ…歳をとって非常に我儘になった。
これまた、人間関係もそうだ。
最近、好きな人、心地が良い人しか周りにいない。
あえて文句や陰口しか言わないエナジーサッカーと一緒にいる必要性は全くないと思うが、この歳で人間関係に冒険がないのは、ちょっとつまらないのではないかとも思う。
掻き乱されたり、不旋律だったり、踊れたり、飛び跳ねたり、頭を抱えたり…とか。
気の合う仲間だけとしかつるまないのは、きっとご隠居老人になってからでいいんだろうな…とも思うのだ。
ま、そもそも私は人付き合いが悪いのだけど。
私の干からびて固まった狭い度量に、坂口安吾の恋愛論を噛みしめる。
“何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。”
坂口安吾[恋愛論]より
安吾先生は、やっぱりすごいなぁ、40歳くらいでこれを書いているのだから。
とった歳とともに置いてきたものばかりだから、見習わなきゃな。

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